ほんわりと口中に香りがひろがる。ちょっと渋味もある。なんだかなつかしい味。三年ものを味わっている。
三年熟成させた古酒ではない。味噌でもない。
できたばかりの新茶である。
小学三年生が製茶をしたもの。なるほど、三年生のもの、三年もののネーミングや良し、である。
地域の方々のサポートをいただいて、三年生のこどもたちが茶葉を摘み、蒸して、揉んで、乾燥させて作り上げた。
蒸しあがった熱い葉を揉む小さな手を思いながら、遠い日の茅葺き屋根の下に広がるお茶の光景を思い出した。
半世紀以上も前のことになる。
どの家でも、米も野菜も作っていた。味噌もお茶も自家製だった。
茶畑というほどではなくても茶の木はあちらこちらに植えられていた。
春、木々が芽吹き始めると、山椒の新芽を摘み、蕨、ぜんまい、筍、蕗…、次々と摘まねばならぬ、収穫しなければならぬものが芽を出し頭を出し、おかあさんたちは忙しい。誘い合わせて山蕗を摘みに行かなければならない。
お茶作りもそんななかのひと仕事だった。
庭に広げたムシロの上に、蒸し上げた茶葉を揉んで広げて天日に干していた。
じゃまになる、と追い払われて、縁側から足をぶらぶらさせながら見ているだけだったわたしが思い出すお茶作りの手順はまちがっているかもしれない。
干して広げて、また揉んで広げて、干すを何度も繰り返していたような…。
井戸水を沸かしたヤカンに直接ひとつかみの茶葉を入れる。お茶の香りがたちまち広がる。湯のみに注がれたお茶は、こどもにもおいしい味だった。
育った村にはお菓子やジュースを売る店は無かった。だからというわけでもないだろうが、おかあちゃんが作るお茶はおいしかった。
自動販売機に各種のお茶が並ぶ。当初は、なぜお茶や水を売るのか、と反発も覚えたが、出掛け先ではいつのまにやら、お茶を買い、水を買うようになっている。
“三年もの“の湯気に香りに、喉ごしに、なつかしい光景がよみがえった。