ちょっとそこまで

「良いおひよりで…」
「どちらまで?」
「ちょっとそこまで」
おとなたちはいつもそんな会話を交わしていた。
帰り道では、
「良いお天気でしたな―」
「どこへでした?」
「はあ、ちょっとそこまで」
「それはそれは、ごくろうさんでした」
片や、田んぼで鍬の柄に両手を重ねて背中を伸ばしながら、片や、道脇に歩みを緩めながら、ことばを交わし、笑顔で別れるのである。
人の姿を認めながら黙って通り過ぎることはできない。
立ち止まって長話になれば互いのためにはならない。
「どこへ?」と問うて、「ちょっとそこまで」。
具体的な質問などはない。重ねて詳しく問いもしない。
円滑な人づきあいのマナーであった。

この頃は、田畑に出ている人影を見ることが少ない。
休日、大きな機械に乗り込んだ人が寡黙に働いている。
また、歩いてバス停に向かう人もいない。
家の庭から車である。
どこへ?と尋ね、そこまで!と答える情景はない。

ただ、最近、人と出会えば、「良いお天気ですね~」、「よく降りますね~」と口にしている自分に気付く。一番平和な会話なのかも知れない。
本日も空が青い。風がひんやりと心地よい。

「ちょっとそこまで」への1件のフィードバック

  1. 田舎育ちのせいか幾つになってもどの方にも一言挨拶や声掛けをしたくなる。
    東京や大阪での暮らしが長かったが方言と同じくこの気持ちは変わらない。
    「ちょっとそこまで」「良いお天気ですね」だけでも返事があれば一日が楽しく
    なる。当たり前なのにこの文を読み温かくなる。

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