生家は今、無人になっている。
ぐるりと家を囲む塀の上に高々と槙、楓、松、梅…の古木がそびえている。
先年、塀の中の一本の松が枯れた。
庭の中心にドッカリと根付き、枝は塀の上を這い、門先へと伸びていた。伸びた枝には支え木が当てられていた。
この家に育った何世代ものこどもたちが、幹に登り、枝を渡り、枝から吊った縄のブランコをこぎ、大きな幹の陰に隠れて遊んだ。
植木屋さん、樹木医さんの手当ての甲斐なく、だんだんと緑の松葉が茶色になっていった。
家を守っていた人は、次第に緑色が褪せ、茶色になっていく大木を毎日、目にしなければならず、つらい、なさけない、なんとかならんか?と嘆いていたが、ある日、ついに切り倒すことになった。
家のシンボル、目印でもあった大木が消えると、生家はなんだかわびしい佇まいとなった。
つらい、なさけないと嘆いていた人は高齢となり、不便な山里を離れ、こどもたちの暮らす街へ移って行った。
大きな存在であった松は無くなったが、槙や楓の古木が健在で、住む人のいない家の庭で、葉に花に四季の移ろいを見せている。
家の周囲では、山椒、栗、柿、枇杷などの木々が手入れもされぬままに、花を咲かせ、実をつける。
春には山椒の新芽や蕗を摘みに、秋には柿や栗をもぎに行く。
この前の嵐の後、様子を見に出かけたら、栗の大きな枝が緑のイガをつけたままボキリと折れていた。
それでもいくらかは収穫できるだろうか、と頃合いをみて行ってみた。
残った枝についていたイガがはじけて飛んだ栗の実が、幸い、猪に食い荒らされることもなく、散らばっていた。
ツヤツヤの実もあれば、色褪せたのや黒ずんだのもあるのは、昨日、一昨日、もっと前に落ちたものだろう。
少し口を開けて転がっているイガ栗は、両足で挟んで口を拡げ、ハサミで実をつかみ出す。
いつだったか、テレビで、イガの中の実をどうやって取り出すか?通行人に試みさせていた。
台の上に並べられたハンマーやナイフを手にする人がいた。
向かいの山際から煙がたちのぼっている。栗のイガを焚いているのだろうか?
ハテ?誰だろうな~。この集落の老人だったら顔も名前も知っているけれど。
散乱したイガを集めて焚いていた老いた人の背中を思い出す。
バサリ!意外に大きな音をたててイガ栗が落ちた。
ふる里の空家は和子さんが書かれる山村よりはまだ住宅が連なっているが山村の光景が目に浮かぶ。
やがて、子供時代に遊んだ里山の光景は無くなるのだろうか?一つ一つに子供時代を重ね合わせ楽し
く読ませていただいている。ブログに新しい文を載せたら、載せたよ!のメールのお願いは無理でしょう
か?。Facebookの様に投稿すると通知があればなぁ!といつも思う。載ってる、載ってる!と見つけて
読むのも楽しいが5日前に載ったのかと思うと早く見ればよかったと残念な気持ちになる。
家族の成長と共に、みんなを見守ってくれた松ノ木だったんですね!
家にあそぺる木があったら楽しいものです。
私の生まれたところはお山が庭みたいなものでしたからね。
空の生家はもったいないですね!
アトリエの半円のテーブル、良かったですね!