お揃いなので…

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作文教室のこどもたちの勇姿、晴れ姿を見ようと運動会へ。小学校の石垣にも彼岸花が咲いていた日。
全員お揃いのTシャツ、紺のショートパンツである。
高学年ともなると体の特長が大きいが、我が作文教室に通って来ているこどもたちはちっちゃくて可愛い。
懸命に、走る、ダンスをする、綱引きをするこどもたちの中からそれぞれの児を見つけられない。
スラリと長身の3年生のはなりちゃんは見つけた。
ちっちゃな児たちそれぞれは、競技を終えて退場してくるときに発見!したりであった。

ずうっと昔の情景―。
その頃は今よりももっと児童数が多かった。
上下ともに白い体操服であった。
母親は、さすがに娘を集団の中からすぐに見つけたようだが、父親が言うには、
「みんな同じ服なので見分けにくいが、一番太い女の子を探したら、それが娘だ」。
その当時と今と、体形だけは変わらない。

茅葺き

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ご近所の茅葺き屋根が修繕中である。このあたりでただ一軒の茅葺きの家。
茅葺き屋根の葺き替え作業を久しぶりに見た。
部分的な補修のようで、新しい茅の黄褐色のところと、長年月風雨に耐えた黒っぽいところとがパッチワークのようになっている。
生まれ育った家も茅葺きであった。
前の家も隣の家も、集落のほとんどの家が茅葺きだった。もう半世紀以上も昔のこと―。
葺き替え作業を思い出す。
あの頃、屋根全体を葺き替えるのではなくて、今回は南側を、次回には東側をと順番に葺いていた。
葺き替えるための茅は、各家で刈り取って乾かして保管してあった。
屋根全体を葺き替えるための大量の茅の準備ができなかったから、今回は南側だけという葺き替えだったのだろうか?
当時、わが家には囲炉裏があった。土間では、竈の下もゴエモン風呂も柴をくべ薪を燃やしていたから、屋根の茅も藁も存分に煙や煤を吸い込み、まとわりつかせている。
屋根葺き職人さんも手伝う人も全身真っ黒になった。
一日の作業が終わる頃、ゴエモン風呂がたてられる。
真っ黒の煤を落とすのは、まず職人さんである。
煤を洗い落とし、持参の衣類に着替え、さっぱりと身仕舞いをして、職人さんは自転車で帰って行った。
翌日も、その翌日も、屋根葺き作業が続く。
そんな日々が何となくうれしかった。
茅葺き屋根の厚さは30、いや50㎝?
部厚い屋根の下、夏はひんやりと涼しかった。
冬は囲炉裏端で煙に目をしかめながら、父に昔話をせがんだ。
何度も同じ話が出てきたけれど、十分におもしろかった。

猪走り?!

家の周りに猪が荒らした跡を見るのは、たびたびのことである。
椿や山椒のまだ幼い木は、目印に石で囲っておく。それも、両手で抱えあげて置き並べた石がある夜、乱雑に動かされ、せっかく作ったサークルが壊される。
あちらこちらに穴ができる。掘りながら走ったか?ボコリボコリと盛り上がった土が続いている。
一頭でか?親子で来たのだろうか?その情景を見たいと思うが、朝になってから狼藉の跡を見るばかりである。
深夜に気配は感じる。鼻息らしき音を聞く。でも、そのとき戸は開けられない。飛び込んで来たらどうする?
今朝なんて、もしかしたら、あの鼻先でズリズリと触ったのではないか?と思えるぐらい、玄関扉の真下の土がえぐられていた。
追跡してみれば、家の壁に沿って掘られた跡が続いている。シャガの緑の茎があちらへ向きこちらへ倒れている。
犬走りなんてものは作ってないが、ちょうどその辺りを猪が走った痕跡がある。

午後に隣家のことちゃんとたかあきくんが回覧板を届けに来てくれた。
来るなり、「猪を見た!」と言う。手で、これぐらいのと大きさを作る。どうやら、まだこどものようだ。
昨夜の狼藉の犯人だろうか?それにしても、猪が昼間にもウロウロしているとは…。

大家族

夏休み―、隣家のことちゃんのおかあさん、大家族の食事作りに追われています、と大忙しそうだった。
賑やかさの中でのおじいちゃん、おばあちゃんの笑顔が思い浮かぶ。
昔、父母と暮らした家でも、夏休みには人の出入りが絶えず、お盆の頃ともなれば20人ぐらいの大家族になった。
こども連れが2家族、3家族、ときにはもっと増えた。
こどもたちは水遊びをしたり、蝉やクワガタを採りに行ったり、山里の夏を遊び暮らした。
おとなたちは忙しかった。
そうめんなんて、いったいどれぐらいの量を茹でていたのだろう。
炊事場は土間の隅にあった。
食事をするのは広い板敷きの間。炊事場と食事の場所は離れていたから、下駄やサンダルをつっかけて、何度も何度も行ったり来たりしなければならない。
風呂は、ごえもん風呂。薪を燃やしつける。こどもたちが面白がって風呂たきをしてみるが、下手に薪を詰め込むと、煙るばかりで炎が上がらない。
夜は、3つ続いた部屋の障子も襖も開け放して、一面に布団を敷き詰めた。
日頃点けない部屋の明かりに誘われて、蛾やクワガタや蝉が飛び込んで来て、神棚や電灯の傘のホコリをバラバラと撒き散らし、ミイミイジージーと鳴いた。
大きな茅葺き屋根の下、腹の上に布団を掛けて寝る涼しさだった。
明ければまた、賑やかな一日が続いた。

ねむの木

大木に繁る緑の葉、その上にふわふわ、あわあわとピンクの花が咲いているねむの木が好き。
もう何年も前に小さな木を裏の林に植えた。
花をつけるのには長い期間かかるらしいが、わが家のねむの木は背丈が伸びるのにも長い年月がかかっている。
今年は50センチほどには立ち上がって、緑の葉をつけていたのにな~。
またしても、地面すれすれのところまで刈り飛ばされてしまった。
毎夏、家の周囲の草刈りをお願いしている。
機械での作業なので、雑草の中に紛れている花なんぞは、みんないっしょに刈られてしまう。前もって、残してほしい花や木の周りの笹や茅など刈り取っておけば良いのだけれど、そんな年もあったのだけれど、今年も刈り飛ばされてしまった。
刈り飛ばされて緑の葉は皆無である。ただ、いつの年も、根こそぎというわけではないので、根元のあたりはかなり太くたくましくなっている。
やがて、いつの日か、たくましい根っこから幹を立ち上げ葉を繁らせ、ふわふわと優しい花を咲かせてくれるだろう。
いや、来年こそは、刈り飛ばされぬように、前もって、ねむの木ここにありと標識を立てておかねば!

花火

ツクツクボウシがあれきり鳴かない、と書いた。
昨夜に降った雨がにわかに季節を早めたか…?朝からツクツクボウシの合唱である。うろこ雲も盛大に広がっている。
昨夜は木の間から花火を見た。
花火と言えば、盛んな夏の賑わいのようだけれど、木の間から見る遠花火は、夏の終わりを告げるようだった。

立秋

うろこ雲、赤トンボ、ツクツクボウシ蝉、秋の案内人揃い踏みである。
ちょうど暦に立秋の文字。なんとピッタリと登場するものだ。
けれど、連日の猛暑、酷暑である。いささかも太陽は衰えを見せず、蝉もギイギイ、ジャージャーと騒いでいる。
あれ以後ツクツクボウシの鳴き音を聞かない。
オーシツクツク、ツクツクボウシ…惜しい惜しい、夏の逝くのがつくづく惜しいと聞こえるのだけれど。
まだそのときではないな~と思ったか?

早朝ライヴ

まだ暗闇の中、4時30分に始まったコーラスは、だんだんと渦を巻くように、うねるように、高く低くわたしを取り囲む。
夏の朝、恒例、ヒグラシ合唱団の発表会というか、合宿猛練習というか…。
一匹、二匹はわが家の壁にでも張り付いているのか、格段に声が大きい。
高らかに声を張り上げてはしばらく休み、また仲間の大合唱に促されるように、あるいは、リードするように歌い上げる。
ゆっくりと闇が薄まり、木立の形が表れ始める。
およそ30分続いたヒグラシ蝉の大合唱。もう持ち時間はたっぷりと歌い上げたと声を納め始めると、ニイニイ、シーシーと低音の蝉たちの出番である。
真夏の朝、林の中で連日のライヴである。

ひいばあちゃん

「ひいばあ大好き」、隣家のことちゃんがしばしば口にする。
かわいい女の子たちの絵を描いた中の一人は、ひいばあである。
ひいばあは99歳である。
ことちゃんは、この夏休みにもひいばあの暮らす神戸へと行った。高層マンションのひいばあの部屋からは海が見えるそうだ。
滞在中、ことちゃんは海へも行かず、神戸のにぎやかな街へ買い物にも出ないで、ひいばあのそばにいる。
にこにこと優しいひいばあとお話をしたり、絵を描いて過ごす。
99歳と9歳のひとときを思い浮かべると、胸があったか~くなる。

うれしい日

還暦は過ぎたが古稀ではない。喜寿までは遠い。
69歳である。節目の年齢でもない。祝うほどでもない。
花束をいただいた。カラフルなゴムで編んだブレスレットをいただいた。小さな手、細い指で編んでいる情景を思い浮かべる。
ピンク、赤、黄色のふわふわの紙で作ったお花をいただいた。6輪あるのは教室の女の子の人数といっしょ。かわいい顔がそろっている。
花びんにはまん丸顔の女の子の絵。もしかしたら、わたしのことを描いてくれたのかなあ?
お手紙もいただいた。作文教室のこどもたちからの手紙。
うれしい。うれしい。こんなに幸せな誕生日のことを書かずにはいられない。

モーニング

「モーニング行こう」と誘いの電話がかかる。「行こう、行こう」ともう一人に電話をする。
今日は都合が悪い、も、ちょっと待っても無い。即決、即行動である。
黒い大きな車がやって来た。助手席にすでになかまが座っている。
地元小学校の同級生である。
ふるさとを離れて幾十年ぶりに戻って以来、「何してる~?」、「元気か~?」、「モーニング行こう!」などと声をかけてくれる。
号令をかけるのも、連絡を回すのも、出掛ける準備も、いたって速いのだけれど、さて、車を降りる段になるとちょっとやっかいである。
二人は愛用の杖をつき、わたしは雨傘に頼る。このところ脚の具合が悪い。
三人ともに口は達者である。
というか、耳に手を当て身を乗り出して聴くこともある。
聴覚が衰え、記憶力もおぼつかない。ついつい、我がちの元気な大声の喋りあいになる。
脚も耳もヨロヨロともなれば、せめて口は達者に…などと勝手な言い分。
店内のみなさん、騒がしくて申しわけございませんでした。

山桃

赤いのや赤黒いのや黄色い実が地面に散乱している。今年は特におびただしい。
公園というか、国道の脇に2、3台分の駐車スペースがあって、そこに山桃の木が植えられている。
地面いっぱいに落ちた実は、踏んづければズルリと滑る。
熟れて枝を離れた実も有れば、鳥たちがついばみながら枝を揺らすので落ちてしまった実も有るようだ。
鳩ほどか?もう少し小さな鳥たちが、山桃の木のこんもりと繁る葉陰にしきりに出たり入ったりしている。
わが家の裏の林には山桃の木は見当たらない。
向かいの地にこんもりと繁る木が山桃だと気づいたのは、一昨年あたりのこと。
実が色づいて落ちる頃になっても、気に留める人は無さそうだった。
山桃のジャムを作りたいな~。でも、公園の木だしな~。
一昨年も昨年も、色づき、落ちるのをただ眺めるだけだった。
今年は、繁みに出入りする鳥たちの声が一段と騒がしく、落ちた実もびっしりと敷き詰めたようだ。
鳥たちの食べる何十分の一か…、少しだけいただこう、と意を決して実を摘ませていただいた。
縄張りを侵すな、とでも言うように、騒がしく慌ただしく、鳥たちが繁みを出入りしては鳴き声をあげる。
少しだけ、少しだけとつぶやきながら山桃の実を摘んだ。
小さなビンに、赤くてとろりとしたジャムができた。
種をとりはずしにくかったので、種があるまま煮込んだ。
ジャムを口に含んで、種をペッと吐き出している。
できました―、と人さまに差し上げにくいジャムである。

笹百合

笹百合の花をいただいた。
花瓶に挿すなんて何十年ぶりのことだろう。
昔、小学生だったころ―、もう半世紀以上も前。
通学の道に迫る山肌にも、向かいの山裾へと続く田畑の畔にも、薊や蛍袋や笹百合が咲いていた。
道々、手折っては教室の黒板の前の教卓に挿した。
高校を卒業後、この里を出た。笹百合の咲くころをいつのまにか忘れていた。
長い年月の後でこの里に暮らし始めたとき、家の裏の林に笹百合を1本見つけた。
蕾が開くのを楽しみにしたが、どうしたことか翌日には無くなっていた。
昔は身近な花だった笹百合がすっかり珍しい花となってしまった。
いま、わが家の周りには、ニョキニョキと背が高いユリが咲く。どこから種が飛んで来たのか、タカサゴユリだそうだ。
笹百合の花は清楚な風情なのに、隣の部屋に挿した笹百合の香りは思いの外、強く濃く迫ってくる。

紫陽花

水色、ピンク、紫…。民家の庭で、田んぼの土手に、寺社の参道に、林の中にも。
紫陽花の季節である。
わが家の紫陽花の蕾はまだ小さい。
いくつぐらい咲くだろうか?とのぞきこんでみた。どうやら今年は花の数が少なそうだ。たぶん、また失敗した。
花が咲き終わったあとで、毎年、刈り込んでおくのだけれど、その時期、刈り込む箇所を間違える。
ちょうど良い時期に、良い箇所で刈り込んだ翌年はたくさんの花が咲く
学習して覚えておけば良いのに、思い付いたときに、適当にこざっぱりと刈り込んでしまうものだから、花が多い年、少ない年がある。
わが家の紫陽花を覚えている人から、とてもきれいな、鮮やかな青い大輪の花を思い浮かべます、とお便りをいただいた。
今年も咲きました、と返事が書けるかなあ?

小梅

今年はわが家の梅が豊作。
チーちゃん、タクミくん、コトちゃん、タカアキくんが、おとうさん、おかあさんとやって来た。
3本の木に小さな梅がたくさんなっている。黄色く熟しているのもあって、枝が揺れるとパラパラと落ちる。
5年生のタカアキくんは幼いチーちゃんに採った実を手渡してやっている。
幼稚園児のタクミくんは自分で採りたい。
3年生のコトちゃんはサッサと脚立に上がって、採った実をザルに入れる。
チーちゃんの小さな袋はたちまちいっぱいになった。
おかあさんが高い枝の実を採ろうと爪先立ちをし、ピョンと跳び上がった。
「おかあさん、ピョンピョンしちゃダメ。お腹にあかちゃんがいるんだから」。タクミくんが忠告する。
タクミくんはチーちゃんのお兄ちゃんで、もうすぐ、弟か妹が生まれる。
通りがかった自転車が止まり、車がゆっくり、ゆっくり。
「いいね~」、「たくさん採ってね~」。
梅を採るこどもたちに掛けられる声、顔が優しい。

おそらにぶつかるっ。

ほのちゃん。3歳の女の子。
ほのちゃんは今日、パパの車でじいじとばあばの家へやって来た。
ママは今、お腹の中にあかちゃんがいるので家でお留守番。
ほのちゃんは凧を揚げにやって来た。
凧はじいじが作った。パンダの絵をばあばが描いて凧に貼った。
じいじはパパがほのちゃんぐらいだったとき、パパにも凧を作ってあげたから、凧を作るのがとってもじょうず。
凧はお空に向かってどんどん揚がる。ピンクのパンダが空を飛ぶ。
「あー、おそらにたこがぶつかる―っ!」
ほのちゃんが叫んだ。

ツバメ

ツチクテムシクテクチシーブイとツバメは鳴いているのだそうだ。
囲炉裏端で父親が語ってくれた昔話のひとつ―。
もとはツバメとスズメは兄弟だった。連れだって田畑の空を飛び遊んでいた。
母親が重い病いにかかり、臨終の床へ兄弟を呼び寄せたとき、スズメはすぐにやって来た。
ツバメは、黒と白の鮮やかな衣裳に身繕いをしてから遅れてやって来た。
母親は、着のみ着のままで駆けつけたスズメには、いつでも何でも腹いっぱいに食べられるようにと言い残し、ツバメには、泥土の中からエサを探して食べるように命じた。
だからツバメは、洒落た衣裳を身にまとっているけれど、「土食うて虫食うて口渋い」と嘆いているのだという。
ケキョケキョホーホケキョとウグイスが高らかに歌っている。
チョットコイと呼ぶ鳥や、ツチクテムシクテクチシーブイと鳴く鳥もいて、若葉きらめく5月の山里はにぎやかである。

緑、みどり

数日前まで、白や黄緑や赤っぽい色がモアモアとモコモコとふくれあがり、山々は霞んでいるようだった。
きれい、ああきれい。感嘆のことばがついついこぼれ出る山の景色だったけれど、この時期はなかなか油断ができない。
ときに汗ばむ初夏であり、かと思えば、ひんやりとして、ストーブを点ける日もあった。
連休も終わって、緑がぐんと濃くなった。
モアンと霞む風情は無くて、くっきりはっきり。
もう春には戻らないだろうなあ。
ストーブは片付けようか…。