成長

声も出さずにうずくまった小さな背中がもっと小さくなってる。
周りの大人は誰も急かさず、じっと待っていた。わずかな時間だったかもしれない。
とてもいい時間だった。

青い空に一片の雲も無く、白や黄色や緑の若葉が柔らかに萌える4月最後の日曜日。
山の上のお宮の前で祭り恒例のこども相撲が始まった。
かわいいともだち、タクミくん。昨年も一昨年も出場した。お相撲が何だかわからなかったあかちゃんの頃から出ている。
この春から幼稚園児である。ガンバルゾ―、って思っていただろうな、きっと。
でも、あれれ?ぼく、負けたのかな?転んだわけではないけれど…。
なんだか立てなくなっちゃった。
顔うつむけてしゃがみこんだ小さな体が、悔しそうで、残念そうで。
無念の思いをかみしめている姿、とても頼もしかったよ!

すみれ、たんぽぽ

真っ白な髪の老女が2人、大きな屋根の軒下の石段に座って握り飯を食べている。土の庭には小さなすみれやたんぽぽがびっしりと広がって、薄紫と黄色の花を咲かせている。
老女たちは、六十数年も前にこの家に生まれ、この庭で遊び、庭につながるれんげ田んぼで花を摘んでままごと遊びをし、れんげの中に寝っ転がって青い空を見上げた。
小さな小さな飛行機がキラッと輝き、一筋の白い線がやがてモクモクと雲になって薄れていくのを見ているのが好きだった。

年に2、3度、遠方から妹が泊まりがけでやって来ると生家に足が向く。
無人となっている家には立ち入れず、ただ軒下の石段に尻を下ろして握り飯をほおばる。
迫る山々は、淡い緑の若葉や赤っぽい山桜の葉がこんもりこんもりと膨らんでいる。
村の中を飛び回っているのだろうか?遠くから聞こえていた鶯の声が、すぐ近くに聞こえてはまた遠ざかる。
平日のことでもあり、道を行く人も田畑に働く人もいない。
かつて、この里の戸数が30だった頃、小学生は男女ともに1年生から6年生までそろっていた。
毎朝、公民館の前に集まって、およそ1時間歩いて登校していた。
下校時は学年ごとに連れだって、道草をしながら帰った。
学校から帰れば、庭でゴム跳び、缶けり、釘さし…。砂ぼこりを巻き上げて走り回っていた。
すみれやたんぽぽは、踏み荒らされることのない庭の片隅に咲いていた。
いま、集落の戸数は23、小学生は2人の姉妹のみ。スクールバスでの通学となっている。

ゆでたまご

うれしかったこと。ゆでたまごの殻がきれいにはずれたこと。
刻んで使う分には不都合は無いが、たとえばおでんの具材にするときは、ツルンときれいなたまごを使いたい。デコボコたまごは、見た目も味もよろしくない。
5個ゆでて、さて1個、きれいなたまごになればよいけれど、全滅のときがある。
あまりにみっともないのは、殻をはずしたら口の中へ。
ゆでたまごの殻を上手にはずすには、ゆであげたら冷水にさらしておくとよい。
ゆでたまごの頭と尻の部分に先ず穴を開けてから、じょじょに殻をはずしていくのがよい。
などのヒントを得るたびに試してみたけれど、成功率は低かった。
たまにきれいにはずれたときは、何かいいことありそうな、そんな気さえした。
またまたテレビで、ゆでたまごの殻が数秒できれいにむけます、と言うので、おでんの予定はなかったけれど5個ゆでた。
なんと、5個ともツルリンと殻がはずれた。それもたちまちのうちに。
あ~、すっきりした。
これからはゆでたまごで運試しができないな~。

花咲けば…

陽気に誘われてほころび、
二分咲き、五分咲きとなった頃、花冷え。少し足踏み。
やがて、花曇りの空に花満開。
月もおぼろの風に花揺れ、
明ければ、冷たい花散らしの雨。
舞い散る花びらは筏となって
ゆらゆらゆらりと川を下って行く。
花咲き、花散る。
今年の春も、はや若葉の頃…。

心ほどける春、です。

ン?もしかしたら?やっぱり!
向かいの山の中ほどに白い花がチラホラと見える。
3月30日。この春初めて見つけたコブシの花。
タムシバというのがほんとうの名前らしいけれど、ニオイコブシの別名があるのならコブシとしよう。
昨年の春、こんなことを書いたら、目に留めてくださった方から、思いは同じ、あれはコブシですとコメントをいただいた。
ウグイスは、もう春ですよね?と、まだまだ試し鳴きをしているかのようで、ちょっと来い!と春の林に誘い出すように鳴くコジュケイも鳴かぬ日もあり。
アシビに梅、椿も咲き継ぎ、桜の蕾も大きくふくらんでいるけれど、山にチラリと白い花を見つけたときこそ、春になった、春が続く―、そんな安心感がわいてくる。
「今年もコブシが咲きました」。

うったり

春はむしがいっぱい、と一人が書くと、もう一人も同じことを書く。
楽しげに描く絵(作文教室なのに…)にしても、目パッチリ、長い髪の女の子、空には太陽という構図が同じになる。
ひとつの机で隣り合い、向かい合わせに座っている。
あ、その子カワイイ、その色いいな!と、同じ色が塗りたくなって、同じ情景を描きたくなるようだ。
作文も、春、むし…と書き始めると、わたしだって虫を見たもン、わたしも書く、となるのか、ついつい、同じ文章になってしまう。
春になったら出てくるのは虫だけ?とちょっと誘導する。
鳥がいる。蝶々も、と書くようになる。
うったり、と書いた。うっとりではなくて、うったりである。なるほどそれもいいなあ。
やがて、次から次へとことばが出る。筆が走りだす。
ふだんはノートに鉛筆で書いている。たまに毛筆で大きな字を書くようにすすめると、面白いらしくて、準備しておいたさまざまなサイズの紙にどんどん書いていく。
床一面に敷き詰めた新聞紙に墨汁たっぷりに書いた作品が並ぶ。

  あったかいようで
  すずしいようで
  わからないけど
  ちょうどいいくらいだね    りこ・1年生

  さくらの下は
  パーティみたいに
  とってもにぎやか       はなり・2年生 

  人は、ポカポカできれいだよ
  人は、にこにこ        いろは・2年生 

  のはらの草の上で
  ねころんで
  うったりしよう        ことみ・2年生 

  新しい
  ステップ           たかあき・4年生 

詩人たちの作品がたくさん生まれた。
春休みにご家族のみなさんに見ていただこう、と準備中である。

●作文教室の作品展は     3月25日~3月31日   1時~5時  場所: ぶんあん 
      
  

春眠、…ず!

久しぶりに電車に乗った。
午後2時の各駅停車の車内に乗客は少ない。
陽が射し込んでいるが、どの窓もブラインドは閉められず、空いたシートに、通路の床に、太陽が拡がっている。
頭をまっすぐに立てたまま目を瞑っている人、うつ向いている人、頭を横に傾けてはフイッと元に戻す人。やわらかな春の陽が眠りを誘う。
目の前の席の若者が急に頭を起こして、キョロキョロ。「……」なにごとかつぶやいている。
次の駅で降りて行った。
約束の時間があったのでは―?

力持ち

猪が出た。
一頭か?ペアでか?親子連れでか?仲間も居たか?
裏山と山道がさんざんに荒れている。
鼻か頭を枯れ葉の中に突っ込んで、そのままグイッと土を掘り起こし、押し出して、ノッシノッシと歩いたのか?ドドドッと走ったのか?
穴が開き、起こされた土がモグリモグリと盛り上がっているところが、一筋、二筋。
山椒や木槿の小さな木の周囲に並べて置いていた石が不規則にずれている。囲いの外へ転がり出ている。
元の位置に戻そうと足で押してみたとて、動かない。
走る、掘る、押す、転がす…。夜中に猪が運動会でもしたような。その様子、見たかったな~。

ブンタン

毎年、三月の初めごろ、高知の知人からブンタンを届けていただく。
ひとつ600グラムもある大きな実。果皮の色も実の味も、やさしくて酸っぱい。
これでジャムを作る。
皮も実も種もつかう。
皮は刻んで茹でて、苦味を薄める。実は袋から外してほぐす。種は水に浸しておくと、水がとろんとする。
皮と実と、とろみのついた水と砂糖を合わせて煮詰めていく。
ピンポーン!訪れた人が玄関で、「あら、いい香り」。
ブンタンのジャム作り。早春の心浮き立つ作業である。

ジグザグと

洗面所を整理した。
何度も洗濯され、陽に干されて薄くなったタオルを抜き出した。
三つに折り畳んで赤い糸を刺していく。
長方形の四辺をクシクシ、クシクシと。
次に対角線をクシクシと。
針を持つなど、取れたボタンを付けるときぐらいのもの。
刺した糸目はジグザグ、ジグザグ。
もう少し横線を刺してみようか?
渦巻き模様もやってみよう。
なんだか面白くて、終日、雑巾作り。
近づく春がこんな作業をさせたのだろうか。
慣れぬ運針で指先が痛む。

春の色

梅が咲き、馬酔木も咲いた。
イカナゴが届き、ブンタンも届いた。
すきま風の吹き込む家に暮らし、ストーブを焚きながらもなおその上に着膨れていたが、ようやく一枚脱ぎ、薄手のものに着替えた。
髪も短くカットした。
ちょっと来い、ちょっと来い♪とコジュケイが鳴く。
隣町へと走れば、車窓に過ぎていく街路樹の、まだ葉は付いてはいないけれど、枝という枝がなんだか赤みを帯びていた。
春の色なのだろうな~。

パンダ

パンダを洗っている。
パンダの形をしたクッションである。クッションであるから、ころころ丸い可愛さはなくて、体型はやや膨らんでいるぐらいである。
作った人の好みであろうか、顔がぶさいくである。
友人がやっているバレエ教室の待合室にあった。
たぶん、新しくて珍しかった頃は可愛がられていたのだろう。抱き締められたり、あっちの手からこっちの胸へと渡され、投げられたり落とされたりしていたのだろう。
縫い目がほころび、白い部分は汚れて黒ずんでいた。
汚くなったパンダは見向かれなくなったか、肩を落としたショボタレた姿で、ソファの端っこにペタッともたれていた。
これ、持って帰っていい?と尋ねると、あなたが縫いぐるみに興味を持つなんて…と友人は笑いながら手渡してくれた。
持って帰って、破れたところを繕って、手洗いをして干しておいたらきれいになった。
それからわが家のソファに置いてあった。
作文教室へ来るこどもたちが代わる代わる抱いたり、話しかけたりしていたが、やっぱりそのうち、誰も抱き上げることもなくなった。
寒い季節はわたしの背あてになり、足の枕になった。
春が近づいて部屋の間仕切り戸を開け、太陽の光が射し込んで来ると、パンダの汚れがずいぶん目立つ。
本日、パンダの洗濯日である。

如月

このところ暖かい日が続いて、わが家の梅もほころび始めた。
厳冬対策にことさら厚いカーテンを吊っていたが、カーテンを束ね、紐で縛り、ガラス窓を開ける。
部屋の間仕切りの板戸も開いた。
キサラギの月とは、着ている衣服の上に更に重ね着をする月という説もあるようだが、三月下旬の陽気です、とテレビが言うので着衣を一枚脱いでみる。
終日、照明無しでは過ごせない部屋に戸外から陽が射し込み、薄着になった身がプルルと震えるけれど、大気が入ってくる。部屋に広がっていく。
戸を開ける、ということは、閉じた心を開けることにもなるのだな~。

春を見つけに…

じいっと冬ごもり中です、と書いたら、蕗の薹を見つけました、あつあつご飯に蕗の薹味噌を添えて食べました。
春を見つけに出てください、とメールをいただいた。
腰痛発症中である。
ソロリソロリと出てみた。
わが家の周りでは蕗の薹を見つけられなかったけれど、枯れ草の下に緑の蓬。梅の木にはプツプツ、プツプツいっぱいの蕾。
椿も蕾からポチリと紅い花弁をのぞかせている。
何という木だろうか?枝という枝が赤みを帯びていた。
手入れをせず、世話をしてやってないのに、お日さまと雨に育まれ、促されて、芽吹き、顔を出し、春めく光にほんのり色づいたのだろうな~。

新年

年賀状が届いた。
ひとくふうありの賀状に頬がゆるむ。心があたたかくなる。
電話やメールや、ハガキも手紙も、たびたびのやりとりはあっても、年賀状はひと味違う。
いつものハガキよりも、メールよりも、文章は少ないし、一行だけだったりするけれど、年賀状は格別の便りだなあ。
年賀状だけのおつきあいになった方もある。
出会ったのはずうっと前のこと。それ以後、なかなかお会いできないが、年賀状を出し、年賀状をいただくたびにお顔を思い浮かべる。

父は80歳を過ぎてもたくさんの年賀状を書いていた。
12月に入ると、暖かい日は縁側で、寒い日はストーブのある部屋で、ゆっくりと毛筆でしたためていた。
筆先が不揃いになった古い筆にもお構いなしで、ポツリポツリとした文字を連ねていた。
まだ生きています、という挨拶だと言いながら。

父を見倣って、というわけではないが、わたしも年賀状を毛筆で書く。
25日までに出しましょうとテレビで呼びかける。
何枚も書き損じながら、ようやく書き上げた。
初めて、締切日までに間に合った。

フンガイ!?

昨日は濃い藍色だった。
今日はオレンジ色。
車に点々とシミが付いている。
シミを付けるのは野鳥である。糞か?吐瀉物か?
凍てつく季節になると、家の近くの梢の辺りが騒がしくなる。そして、鳥の糞害らしきものを被ることになる。
オレンジ色はどうやら柿の実のようだ。
車のワイパーにつぶれた熟柿が引っ掛かっていた。自然に枝を放れてポタリと落ちてつぶれた、という形ではない。ついばんだ痕がある。
第一、柿の枝は車の真上には無い。
おいしそうな熟柿をくわえて運ぼうとしたけれど、落としてしまったのだろうな。気の毒に。
濃い藍色の正体は何だろう?竜のヒゲの実だろうか…?
家の周囲にはナンテンや万両などの赤い実が枯れ色の中で愛らしい風情を見せてくれているが、ある日、実がことごとく無くなってしまう。ヒヨドリのせいらしい。
車に赤いシミが付くことは無いのだけれど、ナンテンや万両があちらこちらに増えている。これも鳥の落とした糞のせいだろう。
この季節、いつもわたしの車はシミだらけ、枯れ葉だらけの汚い姿となる。林の中の住まいである。どこに停めても枯れ葉や枯れ枝が落ちてくる。
点々と付いたシミは、濡らしてもこすってもなかなかきれいにはとれない。
年の瀬の買い物にシミの付いた車で走れば、そこかしこに張り付いていた枯れ葉が、振るい落とされて舞い飛ぶ。

黄色いドレス

回覧板を届けてくださった。
おかあさんの後ろから小さな手が突き出た。ことちゃんがお手紙をくれた。
ことちゃんはわが家での作文教室に通って来ている。
今日は教室の日ではない。おかあさんにくっついてやって来た。
二つ折りのピンクの紙の中にお手紙。
「ピアノの発表会に見にきてくれてありがとう」のタイトル。
グランドピアノの横に女の子が立っている。髪にはリボンが飾られている。
客席にはたくさんの椅子が並べられて、”マエナカさん”が座っている椅子もある。
急いで描いたのか?色が塗ってない。

発表会にはまだ日があった頃、ことちゃんは家に届いたドレスのことが気になって作文が手につかなかった。
いつもなら、作文を書き上げて、感想を言ってもらって、おやつを食べた後も一番最後まで残って遊んでいるのだけれど、まだ終わりの時刻になっていないのに、おかあさんのお迎えも待たず、そそくさと帰って行った。
それほどにうれしかったドレスは優しい色合いの黄色のドレスで、ことちゃんによく似合っていた。
初めて出演した昨年は連弾であった。
今年はメヌエットを独奏である。
1年の成長はめざましいものがあった。
2回目の発表会なので赤い花を2輪包んでもらって贈った。
さあ、この先、何本まで贈ることができるだろう。

オトモツイタチ

12月1日の朝食は、小豆ごはんと茄子の漬物だった。昭和30年代、父母と妹の4人暮らしだった頃のこと。
オトモツイタチだ、と父親が言い、母親が調える小豆ごはんと茄子の漬物をカマドの焚き口の前に据えた小さな椅子に座って、押し込むように、ねじ込むように食べてから登校した。酸っぱい茄子の古漬けは小学生にはどうにも苦手な代物だった。
新年の前の月の1日は、新年にお供をする月だから、お供一日だったのか?とも思うが、1月から12月までの月をこどもに例えるなら、12月は末子だから乙子で、その1日、乙子一日、オトゴツイタチという風習が全国的にあるようだ。餅を食べる地方もあるらしい。
こどもの耳にはオトモツイタチと聞こえたし、父親も言い直しもしなかった。
オトモツイタチの朝は、まだ鳥の鳴かぬまに食べるものだと父親はうるさいが、登校前のあわただしい朝食どき、酸っぱい茄子をガマン、ガマンで食べた。

正月は正月で、銘々のお膳に、なんだかんだの縁起にちなんだ食べ物が並ぶのであった。

小春日和に獅子舞が…

「本年も例年の如く11月24日頃に森本忠太夫が御伺い致します」
葉書の差出人は、三重県桑名市太夫在の伊勢大神楽講社 森本忠太夫。
期日指定の3日ほど前に毎年、葉書が届く。

わたしがもの心ついたときから、いや、昔々から、この森本忠太夫という世襲の名前を受け継ぐ一行が、晩秋、サザンカの咲く頃にこの里にやって来ていた。
ヒュルリー、ヒュルーと遠くから、聞き覚えのある笛の音が届いてきたら、胸がワクワクと躍った。獅子舞がやって来た―!
一行は5~6人で収穫の終わった晩秋の丹波路を巡る。
一軒一軒を訪れ、大きな獅子頭を着けた人が鈴を振りながら、門先と家の内で舞う。
小学生の頃は、下校途中で一行を見かけると何軒か付いて歩いた。
自分の集落に来る日が日曜日だったらどんなにうれしかったことか。集落を巡る一行に、こどもたちがぞろぞろと付いていく。
たいていの家では、ヒュルリー、ヒュルーの笛と、テンテン太鼓とカンカン鉦にあわせてほんの数分舞うだけだが、どんな事情でか、他の家の何倍も長く舞うときがあった。
ときには、真っ赤な顔に目玉もギョロリと恐ろしげな獅子頭をかぶっているのに振り袖姿になって、絵日傘をさして、大きな男の肩の上に乗って、シナシナと舞を見せたりする。
一行に付いて廻れば、いつかどこかで不思議な、鮮やかな、面白いものが見られるかも知れぬ。
田んぼの刈り入れが終わってサザンカが咲く頃にやって来る獅子舞は、とてもとても楽しみだった。

山里暮らしを始めた年の秋、近くの集落で一行を見かけた。何十年ぶりかに見る情景が懐かしかった。
一行は、初めての家には訪れてはくれない。ぜひともわが家を訪ねてほしい、と頼んだ。
翌年から葉書が届くようになった。
当日留守にしなければならぬ場合もあり、天候のかげんで日程が変わることもあり、出会えぬ年もあったが、今年は変更も無く、紅葉の美しい小春日和の日に、ヒュルリーと笛が聞こえてきた。

獅子舞が去ると、やがて里に冬が来る。

どんぐり2つ

ふ、ふ、ふの女の子は翌週来なかった。
のどがいたくてヨーグルトしかたべられない。かわいそうだと1年生のおねえちゃんは書いた。
作文教室のその日のおやつにお芋のようかんを作っていた。さつま芋を練って固めて、ラップでくるんだだけの一口サイズのようかんは、さいわい、こどもたちに好評だった。
やわらかいので食べられるかな?とお迎えに来られたおかあさんにことづけた。
今週、満面の笑顔で女の子がやって来た。
どんぐりを2つくれた。
そして、先日のようかんの小さな容器に、まんまる顔の、たぶん、わたしの似顔絵を貼り付けたのを手渡してくれた。
ありがとう。ゆずより と書いてあるのは、きっとおねえちゃんの字。
お芋のようかんをちょっぴり食べました、とおかあさん。
よかった、よかった。
ゆずちゃんという名前もわかった。
今日は、あのかわいい、ふ、ふ、ふ、を聞かなかったような…。その代わり、ありがとう、をしっかり聞いたよ。