暑くなる。

梅雨が明けて3日、この夏初めてのひぐらし蝉を聞いた。朝4時半、まだ薄暗い時間。
カナカナカナカナ、輪唱が雑木林を巡っていく。
ひぐらし蝉と言えば夕方頃に鳴いて、ようやく灼熱の一日も終わる頃を告げる蝉だと思っていた。
ところが、ひぐらしは朝にも鳴く。
夜明け前のカナカナカナカナを知ったのはずいぶんと人生の歳月を重ねてからのこと。
周りの大人はあたりまえのことと思っていたからか、とくに教えてはくれなかった。
こども時代、夜明け前に目覚めるなんてことはない。夏休みのラジオ体操にも、大声で起こされて寝ぼけまなこで駆けつけるのが常であった。
ひぐらしの鳴くのはラジオ体操よりずうっと早い。
夜明け前のひぐらしが耳に届くようになって、カナカナカナカナひぐらしが鳴けば涼しくなりそうという思いが変わった。
今日も暑くなるよーと知らせているように聞こえるのである。
太陽が昇ればニイニイ蝉の合唱が始まる。
玄関を出れば地面に小さな穴が。これから毎日のように穴の数が増えていく。覗けば目玉に合うこともある。
傍らの木々には脱け殻が、そこにもかしこにもくっつき始める。
ますます暑くなる。

バリ、バリ、バリ

バリ、バリ、バリ、バリ、
長い金髪、両肩丸出しタンクトップ。むき出しの肌はしっかり焦げ茶色。
オートバイで疾走しているのではない。電車の中である。こちらは優先座席。あちらとは離れており、顔は見えない。
いまどき珍しいほど大きな声で電話中である。聞きたくもないけど、バリかっこいいだの、バリやばいだの、やたらバリバリバリバリいうのが癖らしい。
うるさいが、吹き出しそうにもなる。午前9時、車内の座席はほぼ満席状況である。誰の目も耳も全く気にならないらしい。どうやらこれから学校へ行くようだ。
隣の車両から友達らしき女性がやってきた。
先ほどから、バリバリ会話の相手のようだ。電話で誘導されて来て、長い金髪の女性の隣にドスンと座る。大きなバッグで席が確保されていた。
こちらも負けず劣らずの金髪、超ミニのパンツである。
数学ができないという話が聞こえてくる。高校生か? 試験中か? 
降りるときにチラリ、いや、ジロリとなったかもしれない。ふたりの顔を見た。長いまつげをつけ、メイクが濃いが、幼い顔つき。高校生かなぁ?
どこの高校?

もしもし…!?

ジリジリと電話。出ると切れる。
しばらくしてまた呼び出し音。
すぐに受話器をあげたけれど、無言。
いたずら電話か?昼ひなかから。
ジリジリン…
今度は、出るとすぐに話し中のツーツー音。
電話がかかってくる予定もあったので、いたずら電話に違いないと無視する訳にもいかぬ。
やっと相手の声をつかまえることができた。
「何回かけてもすぐに切れてしまって…、話し中にもなったり。どうかした?何かあった?」
心配してくれる友人の声。どうやらわが家の固定電話は故障のようだ。
念のため、こちらからかけてみるとこれは問題なし。友人はすぐに電話に出てくれた。
結局、NTTさんに来てもらうことになった。
「戸外の故障については無料です。電話機の故障は有料です」とあらかじめ言い渡された。
雨の中やってきたNTTの人は、ずぶ濡れになりながら点検。故障発生の箇所もわかった。
濡れて滑る屋根の上での作業は難しいということで、出直しての作業になった。
翌日はなんとか晴れ間も出た。
作業の人も増えて、無事に終了。無料であった。
電話も回復、さて、2、3の用事もある。出かけようとしたら、ブルルともシュルルとも言わない。
あ~あ、今度は車の故障。
雨漏りのしみが広がっている家、電話、車、そしてライトをつけっぱなしにしていたことに一晩中気付かなかった自分。
肩や足腰が痛かったり重かったりの今日この頃。消費期限切れ、です。どれもこれも。

うっとおしいけれど

うっとおしいけれど紫陽花が咲き
うっとおしいけれどあざみも咲いて
うっとおしいけれど蛍がゆらり。
あっ、ウリボウが三頭
しとしと雨のなかを
右手の山から左手の川へと駆けていった。
うっとおしいけれど
緑が美しい季節は
今が一番。
ピンポン
さくらんぼが届いた。

さすが、です。

まだまだ一面枯れ草の中からようやく草が頭を持ち上げ出した頃、春の陽射しに誘われて、草刈りなどしてみようかの気分。
鎌ならぬ枝切り鋏を持ち出して、バシャンバシャンとやっていた。
鎌を貸しましょうか?と心配されながら、笑われながら、草を刈っていた。
両腕が痛くなり、足腰の具合がおぼつかなくなる頃に作業をきりあげて家に入ると、ほぼ1時間ほどたっている。たまに半時間ほど超過していると、疲れがなかなか抜けなくて、その日はだらだらグータラ過ごすことになる。
気まぐれな作業はそれでも何回か続けることができたが、草の育つスピード、勢いはめざましく、とくに、あちらこちらに刈り残し、緑の離れ小島のような風情となっていたところは、いまや島の形も成さず、1mもの茅や蓬の生い茂る密林状態。暑さも暑し、密生した草を見ればいっそう暑苦しい。
「気まぐれに草刈りをしたので虎刈り状態になっているのですが…」
いつものFさんに、きれいにしていただくようお願いに行った。Fさんには、枯れ草が青々としてきた頃とお盆を迎える頃に毎年、草刈りをお願いしている。
「今年は、がんばって草刈りをしておられるなーと見ていました」と言われた。
翌日、さっそくに肩からベルトで草刈り機械を下げエンジン音を響かせて草刈りが始まった。
たちまちに草が舞い上がり飛び散る。わたしよりもずうっと年長だけれど、軽々とすいすいと草が刈り取られていく。
Fさんの仕事はていねいで、山椒やもみじ、椿などのまわりは鎌で草を刈り取り、高速で回る機械の刃が傷つけないように心配りをしてくださる。
以前にお願いした人は、たまたま見物していたときに紫陽花の枝を刈り飛ばしてしまった。隣家から枝を差し伸ばしていた紫陽花だった。
「また伸びます」。
確かに、花が終われば次々に枝を切り取る。けどなー。スマン、つい。とでも言ってくれぬものか…。
隣家にお詫びに行った。「また伸びます」と笑って許してくださった。
Fさんの草刈り作業は3時間ほどで終了した。
何日も何時間も草刈りをしたけれど、初めの頃に刈り取ったところからまた草が伸び始め、あたり一面がきれいに刈り取られているという状況にはついぞならなかった。
それが、さすがです。
ひょろひょろ立ち上がっている茅も蓬も見当たらず、もみじの枝葉がのびやかに広がり、緑がひときわ鮮やかに見える。
生い茂る草は暑苦しいが、短く刈られた草地に大きな枝を広げたもみじは涼しい木陰を作る。
刈って散らばったままになっていた草がFさんの軽トラックに積み込まれ運ばれていった。Fさんの畑のトマトや茄子の根元に敷かれて日照りを防ぎ、やがては肥料にもなるのだそうだ。
Fさんの野菜をたびたびいただく。
掃いたようにきれいになったわが家の草地。刈られた草は肥料となり、育った野菜をいただいて、なんと幸せ、幸せ。

スッキリ

玄関扉に苺の入った袋を掛けておいてくださった方がわかった。
あれからもう、1週間もたって、苺食べた?の電話もかからず、いったいどなたかの見当がつかず、どなたかわかりましたか?と尋ねてくださるひともあり、モヤモヤとしたままであった。
「ブログに書いてあった苺、うちのマミが掛けたそうです」
ご近所の若いダンナさんからのメール。
ええーっ、苺のことがあって後、ご夫婦と出会っているのに… 。マミさんから苺についてはひとことも出なかった。あ、そういうわたしも、そのときは苺のあれこれの事情を話さなかった。
ブログに書いたことがご夫婦の間の話題にのぼって、初めて、それはわたし、となったらしい。
ありがとう。ごちそうさまでした。
スッキリしたー。

三年もの

ほんわりと口中に香りがひろがる。ちょっと渋味もある。なんだかなつかしい味。三年ものを味わっている。
三年熟成させた古酒ではない。味噌でもない。
できたばかりの新茶である。
小学三年生が製茶をしたもの。なるほど、三年生のもの、三年もののネーミングや良し、である。
地域の方々のサポートをいただいて、三年生のこどもたちが茶葉を摘み、蒸して、揉んで、乾燥させて作り上げた。
蒸しあがった熱い葉を揉む小さな手を思いながら、遠い日の茅葺き屋根の下に広がるお茶の光景を思い出した。
半世紀以上も前のことになる。
どの家でも、米も野菜も作っていた。味噌もお茶も自家製だった。
茶畑というほどではなくても茶の木はあちらこちらに植えられていた。
春、木々が芽吹き始めると、山椒の新芽を摘み、蕨、ぜんまい、筍、蕗…、次々と摘まねばならぬ、収穫しなければならぬものが芽を出し頭を出し、おかあさんたちは忙しい。誘い合わせて山蕗を摘みに行かなければならない。
お茶作りもそんななかのひと仕事だった。
庭に広げたムシロの上に、蒸し上げた茶葉を揉んで広げて天日に干していた。
じゃまになる、と追い払われて、縁側から足をぶらぶらさせながら見ているだけだったわたしが思い出すお茶作りの手順はまちがっているかもしれない。
干して広げて、また揉んで広げて、干すを何度も繰り返していたような…。
井戸水を沸かしたヤカンに直接ひとつかみの茶葉を入れる。お茶の香りがたちまち広がる。湯のみに注がれたお茶は、こどもにもおいしい味だった。
育った村にはお菓子やジュースを売る店は無かった。だからというわけでもないだろうが、おかあちゃんが作るお茶はおいしかった。
自動販売機に各種のお茶が並ぶ。当初は、なぜお茶や水を売るのか、と反発も覚えたが、出掛け先ではいつのまにやら、お茶を買い、水を買うようになっている。
“三年もの“の湯気に香りに、喉ごしに、なつかしい光景がよみがえった。

どなた?

雨の中、Mちゃんが山蕗とほうれん草を届けてくださった。
Mちゃんは小学校の同級生である。ときどき、元気な野菜を届けていただく。本日の野菜も、これは何?というほどに大きなほうれん草と、葉を取り、茎を揃えて束に結わえた山蕗。このまま店に並べられそうにきれいに整えられた野菜であった。
ご近所からも、いま掘り上げたばかりという土のついた野菜をいただく。
留守をしていたときは、野菜の入った段ボール箱に、食べてください。〇〇、とお名前が書いてある。
玄関のドアノブに、大きな夏みかんの入った袋がぶら下がっているときは、可愛い絵柄の便箋に、熊本のおばあちゃんのみかんです、と書いてある。
以前、近所に住まわれていたが、現在はお顔を見る機会もめったにない。なのに、故郷のおばあちゃんのお庭のみかんが実ったから、と届けてくださる。
あらかじめ、不在のときのための用意をしてくださっている。いつものこと。ありがたいこと。
果汁たっぷりのみかんの実も皮も全て使ってジャムにする。
玄関の扉に苺の入った袋が下げられていた。中にはメモ書きもなにも入っていない。苺は買ってきたものであった。さて、誰だろう?
電話があるだろうか、と待ったが、いっこうに電話は鳴らない。心当たりの二人に尋ねたがご当人ではなかった。
誰彼に尋ねるわけにもいかず、いっとき迷いはしたが、結局、おいしくいただいてしまった。
誰からの贈り物かを確かめもせず、食べてしまったの?と忠告されたが、まさかねー。
それにしても、どなた?苺をくださったのは。

やれやれ…

昨今は田舎のこどもたちも蛾におびえる。
どこの家にもエアコン完備で、日々窓を開け放つということがなくなって、家の中に蛾が舞うこともないからか?
小学生が数人、我が家に来ていたとき、一匹の蛾が羽を休めていたのに気づいた。やや大きめ、羽にくっきりと鮮やかに黒い縦じまがはいって、見ようによっては、きれいでもあり、妖しげでもあるような。
声をあげたのは男の子であった。
窓から追い出すのか、それとも叩きつぶすのかとも思ったら、悲鳴である。手も何も出せそうにない。他の誰かがどうにかするかと見ていたけれど、動き出す者はいない。
わたしは、といえば、蛾の一匹や二匹、家の中に居ようがどうということもない。
ただ、台所で調理中にバタバタ飛び回られると羽の粉が飛散するし、匂いにつられてか蓋をはずしている鍋の中に落ちたりする。それが迷惑なので、窓の外へ追いやるか、パシンとつぶしてしまう。
かつて、といってもわたしが小学生だったころといえば、もう半世紀以上も昔のことになる。
この里界隈の家々に扇風機もなかったころ。
玄関も窓も縁側の紙障子も、みんな開け放されていた。部屋のあちこちに〇〇百貨店、〇〇薬局などと印刷された朝顔柄や花火の絵の団扇が落ちていた。
蛾も蚊も蛍も、クワガタだってツバメだって出入りしていた。
突然鳴き出す夜の蝉はうるさかった。
神棚に止まって寝ていてくれればいいものを、ツバメも急に飛び回ったりするので、ほこりや煤がバラバラ落ちてきた。
なぜか、そんな家でムカデに咬まれたことがない。
赤ん坊だって、畳の上に薄い布団を敷いて寝かされていた。
開け放された戸、紙障子の外に緑の稲田が広がり、風が縁側から家のなかを吹き抜けていた。
いま、この里の家の多くに縁側など無い。紙障子の外側にもう一枚ガラスの戸が入っている。そしてどの家にもエアコンがある。
昼間はともかく、夜に開け放された窓などあろうか?近年は防犯上のこともあろうが…。ピタリとカーテンが引かれた家ばかりである。
家の中に入り込んだ蛾は珍しいのか、こどもたちの悲鳴であった。
静かに羽を休めている蛾にさえ悲鳴が上がるようでは、飛び立ちでもすれば大騒ぎとなりそうで、半世紀前には蚊も蛾もオタマジャクシもたたきつぶして?遊んでいたわたしが動く。
ちら、と考える。
ここで叩き潰すのは、丸かバツかと。こんなことが頭をよぎる。当節、何でもかんでも命をたいせつに!である。エイ!メンドクサイが、ここは善人になってみようか。
蛾は両掌にそっと覆って窓の外へヒョイと放す。
男の子たちが、「スゴーイ!」
やれやれ。

ジャム

一年中、果物や野菜でジャムを作っている。
できるかぎりこの山里、地元の素材で作りたい。
このあたり、大規模に果物や野菜を作っておられる農家というものはないので、春には春の、夏には夏の野菜、果物だけが手に入るのがいいと思っている。
それも、季節の訪れは遅れがちである。都会のスーパーやデパートにいち早く季節の訪れを知らせる果物が並んだとしても、この里ではまだまだ先になる。
ようやくイチゴが店にならび始めた。
格別、粒ぞろいのみごとなイチゴがパックに詰められているわけでもない。値段はとても安い。
かなり小粒ではあるが、待っていた地元産である。3パック買ってきた。1パックに約300グラム入っている。
いく粒か味わって、あとはジャムにした。
イチゴと砂糖とレモン。ふつふつと沸き立つ。あくをすくう。イチゴの粒を残したままとろりと煮詰まってくる。
これからの季節、梅が実り、トマトが赤くなるのが待ち遠しい。
トマト、柿、柚子、人参のジャムもいい。みんな、この里で芽吹き、熟す。
ジャムを煮ているとき、家の中にはあまずっぱい匂いが満ちる。

寝不足

このところ睡眠不足である。部屋の電気をつけっぱなしで眠ることにまだ慣れない。眩しくて目が覚める。
本来は、部屋の照明は消して枕元のスタンドをうすぼんやり灯した状況で眠るのが安眠の条件なのだけれど、シーズン中は部屋を明るくしたままで眠ることにしている。
何のシーズンかというと、ムカデ出没シーズンである。
凍てつく冬期は人間も縮こまっているが、あらゆる虫たちも穴の中にいるのか世代交代でサナギ状態にあるためか、家の外にも中にも困った虫が蠢いていることはない。
もやもやとまさに山々が笑って春が来て、桜が咲き草が萌え、よもぎタンポポ、つくし、ワラビが一帯を覆い始めると、蟻が蝶が蜂も蛾も這い出し飛び交い始めた。
人も虫もみんなみんなが気持ちの良い季節になった。
草を刈りに出れば、目のまわりをブヨが飛び回り、目の中に入ってくる。咲いた椿に顔を寄せれば、蜜蜂が向かってくる。しつこいブヨにも蜂たちにも悩まされるが、一番困るのはムカデである。
山里のことで、誰彼からムカデが出た、咬まれたの話を聞く。珍しいことではない。
十余年前にこの家に暮らし始めた頃、ムカデが出ようものなら大騒ぎをした。殺虫剤を噴射する、スリッパで叩く、なかなか一撃では仕留められない。
年月がたち、殺虫剤よりもスリッパよりも、少量のお湯をかければ動かなくなることが解った。ムカデがこっぱみじんになることもないし、床がべたつくこともない。
ただ、夜中、暗がりに出るムカデはやっかいだ。
5年も前のこと。
就寝中、額に何かの気配を感じて手で払った。それよりも一瞬早くチクリと痛み。もしやムカデ?飛び起きて電気をつけたら、やっぱりムカデ。
以前にも咬まれたことがある。その箇所は部厚い我がお尻であった。それもジーンズで土間の敷居に座っていたとき。ムカデにも効き目があるという塗り薬を刷り込んだだけでやがて治った。
今回はかばう衣服もない額である。オデコである。ムカデの毒が脳に回ったらどうしようなどと思ってしまった。
救急車のお世話になり、救急車の中で気を失い、気がついた時は病院のベッドで点滴を受けていた。
それ以来、ムカデが出る間は電気をつけたまま寝ることにした。
明るければムカデが出ないというわけではないけれど、暗闇でムカデに咬まれたショックがいまも強くて、シーズン中は暗い部屋で眠れない。
シーズンはまだ始まったばかりである。明るいままで熟睡できるのはもう少し先になる。

ゴールデンウィーク。里は、新緑、若葉を楽しむ人びとで賑わっていた。
兼業農家の多い里である。どこの田んぼにも働く人びとの姿があった。
田んぼに水が張られると、とたんに蛙の鳴き声がにぎやかになった。
雨の夜道を車で走っていると、ライトの中に点々と、小石のようなものが散らばっているのが浮かび上がる。
近づくにつれてそれらが蛙だとわかる。避けたいけれど避けきれない。たぶん、何度か何匹か轢いて通ったと思う。
目の前に近づいてくるのは上向きに手足を広げてつぶれた大きな蛙。
横向きに座りこんでいる中型の蛙。あまりにもゆっくり移動しようとする。早くのいてくれ、早く早く。
かろうじて交わせたかもしれぬ。
昼間、同じ道路を走っても、たまにペチャンコにつぶれた蛙を見ることはあるけれど、蛙のおびただしい轢死体を見ることはない。
夜明け早々にカラスなどが食べてしまうのだろうか?

4月から5月にかけての連休、今年は晴天が続いている。
山々は、新芽若葉の色が様々で太陽にひかりかがやいている。まさにゴールデンウィークの呼び名にふさわしい景色である。
国道を走れば、ふだんなら前にも後ろからも車の姿を見ないまま走るのだけれど、昨日、今日は車が列を作っている。
わたしは、どこといって出かける予定もない。
例の枝切り鋏を持ち出して、未だ刈り残したままになっている枯れ草を刈ることにした。
刈り始めたころは枯れ草だったが、今は枯れ草の中からニョキニョキと緑の草がのびている。
草を刈り取った地面はもう緑に覆われているし、茅などはビンビン勢いよくのびあがってきている。
うれしいことには、摘んでも摘んでもまたワラビが摘めること。
がんばって枯れ草を刈り取ったので、ワラビが伸びやすくはびこりやすくなったのか、ぐるりと歩けば、ひとつかみ、らくらく摘むことができる。
立った姿勢のままでは見つけにくいが、しゃがめば目の前、その横にも、そのまた後ろにもワラビが。
膝を曲げたままでワラビ摘みをしていたら、筍あげようか?の声。
知人夫婦であった。軽トラックの荷台に筍がたくさん積んである。
いま掘ってきたところ。
ありがたいこと。
1本だけいただくことに。
糠が無い。
家から持ってきてあげるとの申し出を辞退した。いま掘りたてである。糠など無くてもきっとだいじょうぶ。
いつもなら、皮をつけたまま、糠を入れてゆでるのだけれど、糠の無いこのたびは皮をはがしてゆでることにした。
店で筍を買うと糠が添えられている。筍ゆでるには糠がなければならないと思っていたけれど、掘りたて筍をゆでるには糠は要らないことがわかった。
ワラビだって同じこと。他の菜っぱ類と同様にただゆでるだけでよい。
初たけのこと何度めかのワラビ、春の味満喫、満足。

花見

小学生だったころ、戸数30の集落の中で車を持っている家は1軒だけだった。山の仕事をしている家で、車は三輪車であった。
花見に行こうとのお誘いがあった。都合のつく人は誰でもという呼びかけであった。
なにしろ、この先は行き止まりの集落である。どの家も濃い強いつながりがある。親しいとか、仲がよい悪いなどは関係がない。
三輪車の荷台に乗り込んで行こうということになっていた。
隣町の大きな湖のほとりの桜が見頃になるころ、近隣から花見客が繰り出してくるということは知っていた。
行ってきた人たちの土産話を聞くばかりの母は、毎年、行きたそうにしていた。
母もわたしも、湖の桜を村の人たちといっしょに見に行ったことはなかった。
「車の荷台に乗り込んでわざわざ遠くまで花見に行かんでも、ここから見える桜がよっぽどきれい」だと父親がいつも言うので、母は参加しにくかったようだ。
わたしは、父親53歳のときのこどもである。父と母とは30余も年の差があった。
若い母は、三輪車の荷台に村の人たちと乗り合わせて花見というイベントに参加したかったのだろう。
小学生のわたしも、湖のほとりにおおぜいの人が繰り出して、花の下でお弁当をひろげている楽しげな光景を重い描いては、悔しかったり悲しかったりしたものだ。
今ならわかる。あのころの父親の年齢と同じ年代となった今、四斗谷の桜がきれいだとわかる。
花の下で弁当をひろげる人たちもいない。土ぼこりも喧騒もない。うぐいすが歌い、時おり、自家用車が出たり入ったりしている。
そんな桜が見られることが幸せと思っている。

四斗谷

四斗谷へ入った。
四斗谷は生まれ育った地である。昔、年貢米が定められていたころ、こんな谷の田畑からは四斗だと殿様が定められたので、村の名前も四斗谷となったとかなんとか聞いたことがある。
四斗という年貢が重いか軽いか知らない。
ヨントタニ?シトタニ?としばしば問い直されたものだ。
シトダニと言うのがまあ正しいかな?この先は抜けられません行き止まりの谷間に23戸、人びとが暮らしている。
わたしが小学生だったころは30戸はあった。
こどもたちは男女それぞれに列を作っておよそ4キロの道のりを集団登校していた。
いまは男女あわせても3人とか聞いた。
高校卒業まで四斗谷に暮らした。
大学は、通えぬこともなかったが下宿生活をさせてもらった。就職、結婚、子育てをしながら仕事も続けた。
子どもが大学生になるのを機にふるさとへと戻った。
わけあって生まれ育った四斗谷から4キロほどのところへ。かつて集団登校した学校の近くに暮らすことになった。
ときどき四斗谷へ行く。
国道からそれて一本道で約1.5キロ。対向車にも逢わず前にも後ろにも車は走っていない。歩く人も自転車も見ない。田畑に人影もない。
昔は、春めいてくると道沿いの田んぼにもその向こうの畑にも鍬や鎌を動かす人がいた。小さなこどもたちが土手で遊んでいた。
だれにも逢わない道を走りながら、きれい、キレイと声が出る。
今年の春は開花が早くて、コブシも桜ももう散り急ぐ風情である。散り残った花がはらはらひらひらと風に舞いフロントガラスに貼り付いたかと思う間に、また吹き飛んでいく。
今は若葉、新芽が息吹く季節。
ひとこと、新緑などというけれど、とてもひとことで言い表せる光景ではない。
芽吹きの色は、白、赤、紫、黄色、黄緑、それらの色がもこりもこりと膨らんでいるようで、もあんと色が霞んでいる。
何色と言い表し難い春の情景の中にいることができる幸せを思う。しかもひとりで存分に。
誰と逢うこともないまま四斗谷をゆっくり、ぐるりとまわって国道へと戻った。

春の味

小さな家の前に草地がある。少しずつ春めいてきた日々、草を刈った。
茅やよもぎや野菊の立ち枯れが一面を覆っていたのを刈ろうとした。
陽射しも春めいて、家の中よりも外の方が暖かくなってきたころのことである。
草刈りはいつも、もっと青々と繁ってくるとお願いをして刈り取ってもらっている。草刈り機械で2時間ほどやってもらえばすっきりときれいになる。
凍てつく毎日に冬眠状態で過ごしていて、ふいと草刈りなどしてみようかという気分になった。
以前にはあったはずの草刈り鎌が見つからず、枝を切る鋏があるばかり。
しゃがんで両手でガシャガシャと切る。けっこうな重さがあるが枯れた茅が刈り取れるのは気分がよい。
通りがかった隣人が珍しいこともあるものだと立ち止まり、草を刈るには道具が違うとのご忠告である。
鎌を貸そうとのご親切をお断りしたが、きっと隣人はまた別の隣人に、笑いながら重い枝切り鋏で草刈りをしていたと告げているだろう。
親切なお隣さんたちのどなたかが、やがて草刈り鎌を届けてくださらぬうちに草刈りをきりあげて、家の中へと退散したのでありました。

天気の良い日は、あいかわらず重い枝切り鋏をさげて出て、しばらくの時間、枯れた茅やらよもぎを刈った。
肩や腕が痛くなると作業を終えた。いつもほぼ1時間の作業時間であった。
1週間も過ぎたころ草地はあらかたきれいになった。
計画も立てず、あちらからこちらから、なるべく通りがかりの隣人の目にふれないような位置を選んで刈っていたら、なんだか2ヶ所、離れ小島のような刈り残しができた。
陽気が進んで草を刈るには暑くなった。

きれいになった草地はどんどん緑が拡がって、ワラビが出始めた。まだ小さなワラビを摘んでゆがいて、出し醤油と花かつおたっぷりかけて食べた。
つくし、ワラビ、これから蕗も出てくる。

今、です。

今年はいつもの年よりも春がずいぶん早くにやって来て、もうお花見も済んだ花が散ったの便りも届くけれど、
この里はちょうど今が春満開。
山には白い花が点々とまきちらしたように拡がっているし、川辺の桜も咲きそろった。
川堤にはタンポポ、つくし、ヒメオドリコソウもびっしりと
お日さまに顔を持上げている。
うぐいすも、それはそれは歌声上手になった。
里の春は今、盛ん。

コブシ?

暖かいというよりも、一気に夏めいた気温になって、椿の花がいっせいに咲いてしまった。
いつもならまず道端のピンクの丸いかわいいのが咲いて、通る人もかわいい、かわいいと楽しんでくださっているうちにもう一本の赤いのが咲き始める。
この木は、ちょっと見には、まるで一本の木に赤い花と白い花が咲く。
実は、根っこのところで二本がくっついている。花が咲く前にはわからなかった。幼い木だった頃に分ければよかったのだが、そのまま育って今は、珍しいですねと言われる大樹となった。
あれもこれも同時に咲いた。次々に咲き続けて春を長~く楽しませてくれるいつもの花景色ではない。
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明けて今朝はまた冬日和。咲こうという花もつぼみを固くしたようだ。

昨日は、各地お花見びよりだったそうだが、このあたりの桜はまだまだ。
けれど、山に白いものがぽつりぽつり。3月も下旬になると、まだかな?もうそろそろ…と待ち遠しい山の景色である。
それが、今朝、見つけた!コブシの花。
ほんとうの名前はタムシバ。図鑑で見るとよく似ている。
昔から里の人たちはだれもタムシバなんて言わなかった。
コブシがたくさん咲いたから、今年はカンカン照りの夏になるとか、今年は大水が出るとか言い伝えられてきた。
学名はタムシバですよといわれても、やっぱりだれもかれもコブシと言っている。
いつもの年よりも10日も早くコブシが咲いた。

今年の春は油断ができない。

春の嵐

大変な荒れようだった。
道端に立てられている幟旗などはことごとく風に煽られ巻き上げられて、あるものはちぎれよじれながら、バタバタとはためいている。
雨は白く煙り、上から斜めから、風に飛ばされて下からも吹き上がってくる。
昨日は秋の台風を思わせる天気だった。
先日も大風の日があって、春一番?かと思ったのだったけれど、気象学的にはもひとつ条件が整わなかったのだそうで、昨日こそが春一番の風であったそうです。
明けておだやかな空模様の中、
このところご無沙汰だったうぐいすが鳴き声を聞かせてくれた。
ひと声ふた声聞かせてくれただけでその後ばったりと行方も知れず、いまごろは何処の林で、梅の梢で、歌っているのだろうかと思っていた。

今朝のうぐいすはかなり歌上手になっていた。

あれから…

ひと声、ふた声、うぐいすの声を聞いたのは、もう1週間も前のことになる。
以後さっぱり音沙汰なしである。寒さがまたぶり返した。この里の梅はまだちらほら咲きである。
どこか暖かな里の花咲き誇る梅林で、歌い遊んでいるのだろうか?
次にやって来るときは、きっと、この前よりも上手な歌声を聞かせてくれる。
亡くなった母は、うぐいすだって練習を重ねて上手に歌えるようになるのだと言っていた。
この前、テレビで、若い気象予報士さんが同じようなことを言って、熟練のキャスターから、
ほんとかねとちょっと笑われていた。
うぐいすがだんだんと歌声じょうずになっていくのはほんとうのこと。
春もたけなわというころのうぐいすは、
それはもう、ケッキョケッキョ、ホウホケキョ、ケケケケケキョ、ホウホケキョなどなどと歌い続けて、
ついには、ケ…?なんて、疲れ果てたかのようなため息すらもらすのですから。
さて、どんな声を聞かせてくれるやら。本日は晴天、暖かさもころあいである。