作文ごっこをしている。
幼稚園児だった子が2年生になった。
も、し、くなどの字がうまい具合にひっくり返っていたけれど、漢字も書けるし、スラスラと長文が書けるようにもなった。
といっても、その日の気分次第、何があったか、乱暴な字が跳ね回り、ヘナヘナの字がのたくったようになることもある。
ほんの数行書いたら、できた!とノートを見せに来て、後は絵を描いている。
女の子たちは、お姫さまのような人物の絵を描くのが好きだ。
作文教室のこどもたちなんだから、その絵にお話を書こうよ、と言うと、台詞を書き込んだりしている。
4年生になった男の子は、こんなふうに書いたらセンセイきっと喜ぶぞ!などと思って書いたな、というようなときがある。
さすが、2年間の成長かな―?
新しく入会してきた2年生と1年生の女の子は、ふたりとも、とてもおとなしい。
尋ねると、大きな目でじーっとこちらの目を見返して聞き取ろうとする。ゆっくりと書き始めると、表現力豊かに何ページも書いた。
もうひとり、1年生の女の子もしゃべってはくれないが、提案してみると、大きなしっかりとした字で妹のことを書いた。
ふ、ふ、ふ、ひ、ひ、ひ、と笑うのがかわいいと書いた。
1時間の作文ごっこが終わるころ、それぞれの家からお迎えに来られる。
おかあさんと来た子にお名前は?と尋ねたら、名前は教えてくれず、ふ、ふ、ふ、ひ、ひ、ひ、と満面の笑顔で笑ってくれた。
投稿者: 前中 和子
ツワブキ
11月。
山々は急ぎ足で紅葉を始めた。昨日と今朝では色合いが異なる。
黄色、紅色、緑色、そのどれもが薄く濃く、グラデーションを見せ、こんもり、こんもりと紅葉の塊を連ねている。
家の周りに散り敷いた桜や柿の落ち葉を掃く。
月めくりのカレンダーは2枚になった。
黒一色の切り絵の風景画である。
11月の絵柄には“四斗谷の家“のタイトルが付けられている。
本の返却に図書館に行ったとき、ちょうど開催中だった切り絵展を見ていたら、生まれ育った集落の名前が添えられた作品があった。
作品の構図は、およそ下半分に、たぶん、ツワブキと思える植物群が描かれ、上部には、山を背に大きな屋根、庭にそびえる木々…。
見覚えのある景色であった。わたしの生家がここに描かれている。
画面に大胆に描かれているツワブキは家の門の内側にあって、門先や道端には無い。
描いた人は、まるで我が家の庭を見通したような絵であった。
かつて、家人が居たときに訪ねられたのだろうか?
切り絵のグループの作品展であったが、当の作者が会場におられることが判った。
「これはわたしの家です!」。興奮した口調であっただろう。
題材を探してドライブの途中、小さな集落に入り込み、描きたくなった風景だった、と説明をしてくださった。
門の内側に咲いているツワブキを見たわけではない。家のたたずまいと季節から想像を巡らせてのツワブキであった。
展示会終了後、カレンダーにします。できあがったらお届けします、との言葉どおり、1年後にカレンダーを届けてくださった。
それからまた1年たって、11月の絵柄となって登場である。
無人の家の庭に今年もツワブキは、光沢のある葉の上にスックと茎を伸ばし、鮮やかな黄色の花を咲かせているだろうか。
干し柿
高齢の知人は3年ほど前から都会で暮らしている。当初は山里と街とを身軽に往き来していたが、足腰が弱くなって、ふるさとへの足が遠のいた。
ときおり、ふるさとの季節便りを届けると、「帰りたいなー」という声が返ってくる。
この山里に暮らしていた頃は、毎年、数百個もの渋柿の皮を剥いて干し柿を作っていたので、マンションのベランダに一筋、干し柿の縄がさがっていれば楽しいのではないか、と十数個の渋柿を箱に詰めて送った。
半月もたって、都会のベランダの干し柿はどんな仕上がり具合だろうか、と尋ねた。
吊るすための縄も用意して、皮を剥こう、干そうと思っていたのだけれど…、干し柿は作らなかった。口ごもりながらの返事であった。
青空の下、集落を取り囲む山々にパッチワークのように広がる紅葉景色。大きな屋根の軒下に、ズラリ何連もの柿の縄を吊り下げてこそ、知人にとっての秋の風景であったのだろう。
いらぬおせっかいをしたことを悔やんでいる。
柿
ふるさとを離れていた頃、ふるさとの秋を思えば、青空の下、そびえる古木に実る柿が陽に照り輝いている風景が浮かんだ。
小さな集落のどの家にも、家の横、裏、あるいは前の畑の畔にも、きっと柿の木があった。クボ柿と呼ばれた小さな甘柿である。
あの頃―、柿は見上げる高さに実をつけていて、背伸びをしても届かなかった。手の届くところにあるのはおいしくない、とおとなは言う。
長い竹竿をさしのべて、柿の実のついている小枝を絡めてひねりとる。専用の道具が作ってあった。
高~いところの柿は、太陽をいっぱいに浴びて、いかにもおいしそうに輝いている。
取りたいけれど、長い竹竿は重い。ユラユラ揺れて、めざす柿の実にうまく届かない。
ようやく竿の先に引っ掛かっても、ソロリソロリと竿を下ろす途中で実は落下、地面にぶつかってグシャリ。
身が軽かった頃は柿の木に登った。
手でもぎ取った柿を枝に腰かけて、種を吐き散らしながら、いくつもいくつも食べた。
集落には店など一軒も無かった。
秋は、蒸かしたさつま芋や栗、柿がおやつであった。
今年は柿が豊作である。
びっしりと実を付けた枝が重みで地面に届きそうになっている。
豊作過ぎて実はさらに小粒である。
しゃがんでも取れる柿の実は、ありがたみが少ないような気がするけれど、かじってみると甘かった。
干し柿用の渋柿は収穫され軒下に吊るされている。昔も今も変わらぬ景色であるが、竿を揺らしながら小さなクボ柿取りに興じている情景はさっぱり見ない。
柿の木に登っているこどももいない。
あれが無い。これも無い。
ジャムの容器の蓋が無い。今年も徳島の知人から届いたスダチで作ったジャムの蓋が無い。
冷蔵庫から取り出したら蓋が無かった。
朝食のあと、蓋をしないまま冷蔵庫へ入れたのか?
食卓には蓋は残ってない。
蓋がゆるくて、冷蔵庫内に落ちたのか?
どこへ行った?
容器は高価なものではない。おしゃれなものでもない。
同じものが予備にある。他にも大小の容器がある。
けれど、蓋が無いことが気に入らぬ。なぜ、蓋が無い?
蓋をすることを忘れたかも知れぬ自分が嫌になる。
しっかりと閉めなかったかも知れぬ自分が嫌になる。
メモが無い。
昨日、書いたメモが無い。
紙屑を捨てる籠をかき混ぜてみたが、捨ててはいないらしい。
冷蔵庫の扉にマグネットで留めてもいない。
たて続きの紛失に滅入る。
「お前たちもこの年になったら分かるだろう」、
父親が、情けなさそうにも、腹立たしそうにも言っていた情景を思い出す。
松枯れ
生家は今、無人になっている。
ぐるりと家を囲む塀の上に高々と槙、楓、松、梅…の古木がそびえている。
先年、塀の中の一本の松が枯れた。
庭の中心にドッカリと根付き、枝は塀の上を這い、門先へと伸びていた。伸びた枝には支え木が当てられていた。
この家に育った何世代ものこどもたちが、幹に登り、枝を渡り、枝から吊った縄のブランコをこぎ、大きな幹の陰に隠れて遊んだ。
植木屋さん、樹木医さんの手当ての甲斐なく、だんだんと緑の松葉が茶色になっていった。
家を守っていた人は、次第に緑色が褪せ、茶色になっていく大木を毎日、目にしなければならず、つらい、なさけない、なんとかならんか?と嘆いていたが、ある日、ついに切り倒すことになった。
家のシンボル、目印でもあった大木が消えると、生家はなんだかわびしい佇まいとなった。
つらい、なさけないと嘆いていた人は高齢となり、不便な山里を離れ、こどもたちの暮らす街へ移って行った。
大きな存在であった松は無くなったが、槙や楓の古木が健在で、住む人のいない家の庭で、葉に花に四季の移ろいを見せている。
家の周囲では、山椒、栗、柿、枇杷などの木々が手入れもされぬままに、花を咲かせ、実をつける。
春には山椒の新芽や蕗を摘みに、秋には柿や栗をもぎに行く。
この前の嵐の後、様子を見に出かけたら、栗の大きな枝が緑のイガをつけたままボキリと折れていた。
それでもいくらかは収穫できるだろうか、と頃合いをみて行ってみた。
残った枝についていたイガがはじけて飛んだ栗の実が、幸い、猪に食い荒らされることもなく、散らばっていた。
ツヤツヤの実もあれば、色褪せたのや黒ずんだのもあるのは、昨日、一昨日、もっと前に落ちたものだろう。
少し口を開けて転がっているイガ栗は、両足で挟んで口を拡げ、ハサミで実をつかみ出す。
いつだったか、テレビで、イガの中の実をどうやって取り出すか?通行人に試みさせていた。
台の上に並べられたハンマーやナイフを手にする人がいた。
向かいの山際から煙がたちのぼっている。栗のイガを焚いているのだろうか?
ハテ?誰だろうな~。この集落の老人だったら顔も名前も知っているけれど。
散乱したイガを集めて焚いていた老いた人の背中を思い出す。
バサリ!意外に大きな音をたててイガ栗が落ちた。
この秋、初めての…。
ことちゃん家のおじいちゃんが世話をされている栗が届いた。毎年、ちょうど良い実りの頃に届けてくださる。
ピカピカ艶よく光った大きな粒である。
まあ、うれしい。
さあ、大変。
台所の流し台とガス台のそばに延々と居続けることになる。
しんどいな~、めんどうだな~、でもやらねば、な~。
待っていてくれる人がいる。おいしいとほめてくれる人もいる。
ほめられて幸せ気分になる。
待っているといわれて、ちょっと鼻が高くなっている?
期待に応えねばならぬ。
訪問者があれば、問われもしないのに、これから渋皮煮を作らねば…と自らしゃべっている。
ガス台のそばを離れるわけにはいかないけれど、鍋のなかをかき回すわけでなし、たびたび味見をしては微調整をするわけでもない。
コトコトトロトロの火加減を見ながら、炎が立ち消えしないよう気を付けているだけ。
本を読んだり、こんなふうにちょこっと書いたりしながら、栗がほどよく煮えるのを待っている。
今秋、初めての渋皮煮作りである。
完成したら、第一番めの届け先はもう決まっている。
さて、思う味に仕上がれば良いが―。
いままだ作業は、道半ばである。
ちょっとそこまで
「良いおひよりで…」
「どちらまで?」
「ちょっとそこまで」
おとなたちはいつもそんな会話を交わしていた。
帰り道では、
「良いお天気でしたな―」
「どこへでした?」
「はあ、ちょっとそこまで」
「それはそれは、ごくろうさんでした」
片や、田んぼで鍬の柄に両手を重ねて背中を伸ばしながら、片や、道脇に歩みを緩めながら、ことばを交わし、笑顔で別れるのである。
人の姿を認めながら黙って通り過ぎることはできない。
立ち止まって長話になれば互いのためにはならない。
「どこへ?」と問うて、「ちょっとそこまで」。
具体的な質問などはない。重ねて詳しく問いもしない。
円滑な人づきあいのマナーであった。
この頃は、田畑に出ている人影を見ることが少ない。
休日、大きな機械に乗り込んだ人が寡黙に働いている。
また、歩いてバス停に向かう人もいない。
家の庭から車である。
どこへ?と尋ね、そこまで!と答える情景はない。
ただ、最近、人と出会えば、「良いお天気ですね~」、「よく降りますね~」と口にしている自分に気付く。一番平和な会話なのかも知れない。
本日も空が青い。風がひんやりと心地よい。
早い者勝ち?
裏山の一角がすごいことになっている。
ギボウシ、アジサイなどのまだ小さいのを大小の石で囲んでいるが、中でも大きな四角い石が2つ、変な場所に移動し、変な方向を向いている。
石で囲んでいたところは耕されたようになっていて、ギボウシもアジサイも、倒れ、破れ、壊れている。
傍らの、山へと続く道は、この前の大雨の際には川のように水が走ったが、後の荒れようよりもいっそう乱雑なことになっている。
そこかしこ、ボコンボコンと穴があき、ズリズリと地面をえぐって行ったような跡がある。
これまでの例から、たぶん、猪の仕業であろう。
3週間ほど前、台所の窓から見た大きな尻、頭を草むらに突っ込んでモゾモゾとやっていた、あの猪かも知れぬ。
1本だけの栗の木の栗もそろそろ落ちる頃―。
古い木で、次々と枝が枯れては落ちている。
手入れもせず、いくらも実をつけないが、今年はいくつ落ちるだろうかと待っている。
猪に食い散らされては、面白くない。
カサリとイガが落ちる音を聞いたら、サッと走り出て栗を拾わねばならぬ。
惜しい…?
8月、最終の土日曜である。
土曜日、久しぶりに夏らしい天気。
青い空に白い雲、オーシオーシ、ツクツクオーシ、蝉が盛んに鳴いている。
裏の林にウイーンウイーンと草刈り機の音が響いている。
カンカン炎天下に唸る機械音はいっそう暑さを増幅させるが、本日の音はなんとなく心地好い。
長い間、こんな音が聞けなかった。働く人の姿を見なかった。
じつは、裏の林の草刈りは、3日前にいったんは始まっていた。いや、例年であれば、盆前には草刈りは終わっているはずであった。
連日の雨に大量の水を含んだ木々も土もじっとりと湿ったままで、草刈りどころではなかった。
3日前、天気はなんとか半日ほどはもったが、その後のうっとおしさから、刈り残った分が本日に持ち越されていた。
80歳のフジモトさんが元気に草を刈ってくださる。
わたしもノコギリを持ち出して、枯れ木を根元から切り倒すことにした。
「足で蹴飛ばしたら倒れませんか?」と声をかけられてやってみたが、倒れそうにない。
枯れ木と言えど、ギコギコギコギコ汗水流して、たった1本、やっとのことで倒すことができた。
久しぶりの夏びより。こんな作業も本日は爽快!
オーシオーシ、ツクツクオーシ
惜しい惜しい、つくづく惜しい、法師蝉が行く夏を惜しんで鳴いている。
もう、秋?
そろそろ鳴き始めてもよい時間なのに聞こえてこない。
年齢のせいか、早朝に目覚めることがしばしばとなった。
ヒグラシ蝉に起こされることもあれば、ヒグラシよりも先に目覚めて、鳴き始めるのを待っていることもある。
雨降りでもなければ、4時40分ごろには一匹が鳴き始め、やがて、ケケケ、キョキョキョ、カナカナカナ…と林の中を駆け巡るように輪唱が始まるのに、今朝は5時になっても鳴かぬ。
5時15分…、遠くで鳴いているようだ。
未明の林に30分間に及んで響きわたったかん高い鳴き音ではない。
遠くから、微かに、鳴くのが聞こえてくる。それも10分間ほどで止んでしまった。
ヒグラシの鳴く夏の朝は終わったのか?
小さな緑色の虫、たぶんキリギリスが3匹、チョン、チョンと畳の上を飛び回っている。
猪が…。
雨、雨、雨、台風は過ぎたが本日も雨である。
乾燥機など持たぬ。洗濯物が乾かない。
真夏の炎天下に干したタオルはパリンと乾いて、拭えば肌を刺すほどだが、このところのタオルはヘナヘナ、やわやわである。
畳も床板もベタつく。
家にも人間にもカビが生えそうだ。
閉じこもるばかりの家から電話をかければ、電車で30分の町の人は、晴れてるよ―と言う。
テレビに映る甲子園では、太陽の下で高校生が汗を光らせている。
開会式が台風のせいで2日延びたことである。昨日など、降ったり止んだりの天気で、中断しながら試合が続けられていた。
なんとか好天気の下でプレイをさせてやりたいもの。
甲子園が晴れでひとまず良かった。
近隣の町は太陽が照っているらしいのに、この町の上には雨雲が貼り付いているようだ。
しとしと、ベチャベチャ、ザアザア…、弱くなったり強くなったりの雨が続いている。
カンカン照りも苦しいが、夕立ならぬ梅雨か時雨かのような雨続きの夏も気分がふさがる。
降りしきる雨の中、大きな猪が山から出てきた。
窓越しに5メートル先。
草の中に頭を突っ込んでモゾモゾとやっている。
昼間に、こんな家の近くをうろつく猪を初めて見た。
猪もまた、連日の雨のうっとおしさに耐えかねて、ねぐらから出てきたのだろうか?
夜中のヒグラシ
非常に激しい雨
猛烈な雨
氾濫の危険水位を越えた
避難指示、勧告が全国で150万人に出た
厳重な警戒を
最大級の警戒を
非常事態です etc. etc.
テレビでラジオで、繰り返し繰り返し、台風11号の情報、映像が流れる。
ノロノロと進む台風の矢印は兵庫県を指している。ここが直撃されるのか?
8月9日、夜、木々も揺れず雨の音もしない。警報が出ていることで車も走らず、静まり返ったまま時間が過ぎる。やがて、この静けさを破って台風襲来となるのか?
真夜中にヒグラシ蝉が鳴く。
嵐の前の異常な気配に悲鳴を上げるのか?
雨戸を閉ざし、懐中電灯とラジオを枕元に置き、着の身着のまま床に就いた。
風雨の荒れ狂う夜も恐ろしいが、来る、来る、非常事態です、などという予告が繰り返されるのに、静まり返っている夜も不気味である。
林の中の家である。小屋である。
ひと抱え以上もある桧が倒れたら、小屋はペチャンコにつぶれるだろう。裏の山が土砂崩れをおこしたら、支えるものも無しに小屋は押し流されるだろう。
あれこれ思うと眠れない。
「近畿地方を暴風圏内に巻き込みながら北上中」だと言っている。
猛烈なヤツが激しくやって来るのか?いったいどれほど危険なヤツが来るのだろうか?
けれど、明け方まで、やはりあたりは静かだった。
もー、疲れた。猛烈な台風が襲ってくる前に、時々刻々の最大級の警告に、猛烈に疲れた。
朝になって、ようやく雨が強まってきた。
いっとき、激しい雨風が吹き荒れ、雷も鳴ったが、台風を待つ間の恐怖心が、いよいよまさにその時になって倍増することはなかった。
昼過ぎにはニイニイ蝉が鳴き始めた。
雨戸を開け、玄関を出て家の周りを歩いた。大きな枝が折れ、散乱している。枯れた木が車の屋根に乗っていたが、幸い傷はついていなかった。
山へと続く道は川となって勢いよく水が走っている。
最大級の厳重な警戒が呼びかけられ、もしかしたら…の覚悟もしたが、繰り返しの情報にどんどん恐怖心をあおられてくたびれ果てた。
お見舞いの電話が続いた。
隣家のことちゃんおかあさんも様子を見に来てくださった。
おないどし
もう50年もたつ。
大学の学生課で紹介された下宿屋での初対面で自己紹介しあうと生年月日が同じだった。
こじんまりとした一戸建ての階下が大屋さんの住まいで、2階の4室が貸し室であった。朝夕食付きの下宿生活が始まった。
その春、新入生の私たち2人がお世話になることになった下宿屋には2年生と4年生の先輩がおられた。
英文科の4年生は東京出身、黒々と大きな目が力強く、化粧もしっかり手慣れた風で、田舎出の新入生の目にはぐんと大人の女性であった。
2年生は大阪出身、コロリと丸い体形に親しみが持てたのは、わが身とよく似た体つきだったせいかもしれぬ。
もう一人の新入生は、わたしとはまるで異なるスラリとした体形、顔立ちもスッキリ。出身は山口県。東京、大阪出身の先輩方にひけをとらぬ、あか抜けた美人であった。
昭和40年(1965)春の出会いであった。
ちなみに、4年生の部屋は、廊下の奥の角部屋で2方に窓があった。その向かいが2年生の部屋、襖を隔ててもう一人の新入生の部屋、ともに4畳半であったか?
一番後に入居が決まったわたしの部屋は、階段を上がってすぐの最も狭い3畳であった。
下宿での明け暮れはけっこう厳しかった。
女子学生ということで、門限は夕方6時。あらかじめ申し出ておけばそれよりも遅くなってもよかったが、6時の夕食に間に合うために、あたふたと帰ってこなければならなかった。
夜遊びなど知らぬときであったし、田舎での親元暮らしでも学校から帰れば外出することもなく、夕方、はやばやと家族そろって食事をとることがあたりまえのことではあったけれど、なにしろ大学生になったばかりである。知り合ったばかりのクラスメイトとのおしゃべりが楽しいし、時計台のある図書館の前に広がる芝生でのひとときは、うらうらとのどかであったし、男女学生ともに上級生はおしゃれで、あちらを見ても、どこを歩いても心浮かれていた。
夏の6時、帰るには心残りな時刻であった。
早い夕食の後、誰かの部屋に集まってお菓子を食べたりしゃべったりで夜更かしをした翌朝は、「なんだか賑やかだったわね」ピシリと釘を刺された。階下に気をつかって声をひそめたつもりがかえって不快なもの音に響いたのだろう。
けれどときには、深夜、階下から「おとうさんがお寿司をお土産に持って帰ったから降りていらっしゃい」と声がかかることがあった。ありがたいような、迷惑なような気分を抱いて、ポトリポトリと階段を降り、酔って帰った大家のおじさんの手土産寿司をモソモソといただいたりした。
1年たって、おないどし2人は下宿を出た。
当時、文化住宅と呼ばれていたところに引っ越した。
長屋の中に廊下を挟んで20だったか、各戸の玄関扉が並び、扉の内には、狭い台所とトイレ、6畳と4畳半が襖で仕切られていた。風呂は付いてない。
おないどしの共同生活が始まった。
当時、地方から出てきた学生たちの暮らし方は、学生寮であったり、賄い付きの下宿であったり、大学の近くに学生ばかりが住む部屋を借りて、食事は大学の食堂でとるというのもあれば、学生のために何部屋かを貸し室として、共同の風呂や炊事場を設けているというのもあった。
文化住宅での共同生活は、1週間交代で炊事当番をし、いっしょに銭湯に通った。
冷蔵庫や炊飯器は持たず、備え付けの鋳物のガスコンロひとつに鍋をかけ、ご飯を炊き、次いでおかずを煮たり焼いたりした。
長屋の中で学生はわたしたちだけであった。
長い廊下は風や人の通り道であったが、住人の暮らしの音の通り道でもあった。
毎日のように夫婦喧嘩の声があがったのは、廊下の一番端の住まいからであった。
瀬戸物の割れる音、殺せ―!の悲鳴にも驚かされたが、離婚などということにもならず、夫婦とはふしぎなものだと感心もした。
生まれ育った家は、田畑に囲まれ隣家の物音など聞こえぬ距離にあった。
隣室は若い夫婦で、こどもが2人いた。
いつも大きな割烹着を着けた奥さんは、元気に動き回り、声高にこどもを叱り、狭い台所で行水をさせていた。
学生であるわたしたちにたびたび借金の申し入れがあって困った。それも少額であったから断りにくかった。
斜め前の部屋からは終日ミシンの音が聞こえた。
たいていはいっしょに夕食をとり、その後で銭湯に行った。ひとりでは夜道が怖かった。
フォークソングの神田川は昭和48年(1973)の発売である。わたしたちの銭湯通いはそれよりも数年前。似たような情景が思い出される。
文化住宅での共同生活は2年間であった。
おないどしの彼女が結婚をした。お相手は兄上の友人でかねてより交際が続いていた。
彼女は新居のマンションへと引っ越して行き、わたしは6畳に小さなキッチン付き、風呂無し、トイレは共同というアパートへと移った。
現在、山口県に住むおないどしの彼女には孫が2人。
いまも背筋がシャンと伸び、美しく年齢を重ねている。
この頃、年に一度、何から何までご招待の温泉旅行に誘ってくれる。貧乏暮らしのおないどしのことをいつも気づかってくれる。
7月は誕生月であった。
ねむの木
買い物へと走る道―、山から道路へ枝をさしのべている、ねむの木。
大木でありながら、ピンクの花が、ほわほわと可愛くて優しい。
わが家の周辺にはねむの木が無い。
ねむの木が欲しくて小さな木を植えた。もう、10年も前のことである。
まだ花は咲かない。
10年もたっているのに、木の丈はほんの30センチほどである。
資料によれば、花の咲くのは10年もたってから、とある。なら、仕方がない。
丈の低いのは、毎年、毎年、草刈りのつど、草刈り機で刈り飛ばされているからである。
住まいの裏の林の下草刈りをお願いしている。
野鳥たちに食べられ、糞として落とされて、やがて芽生えた万両やなんてんなどは、丈が低くても草を刈る人の気づかいがされて、そこかしこに残されている。
なぜか、いつも、ねむの木は刈り飛ばされてしまう。
刈り飛ばされるけれども、根こそぎというわけではないので、一年のうちにまた、ひょろひょろと立ち上がって葉を広げる。
さすがに今年、確かめてみれば低いながらも根元などずいぶんとしっかりしている。
葉の緑も濃い。
ここに居る!気を付けて刈れよ、と主張しているようだ。
来年あたり、そろそろ花が見られるかも知れない。待ってる。
親に似ず…
アジサイの花が終わった頃、適当に切り取ってプスプスと挿し木をしておいたら、何本かは根付いてくれる。
アジサイを買ってきて何回も植えたけれど育たなかった、と若い隣人が言うのを聞いて、挿し木が成功したのを鉢植えにしてプレゼントした。
さて、無事に成長したかな?またまた育たなかったか…。
わたしのところでも、モクレンを3回植えたけれど、ついに育たなかった。ハナミズキは植えてから10年、一度も花が咲いたことがない。
土が良くないのか、何が気に召さぬのか、わからない。
アジサイやムクゲ、ツバキ、サザンカなどはもう何年も何年も、季節がめぐればきれいな花を見せてくれる。
「咲きました」と隣人から知らせがあった。
見に行ったら、茎丈30センチほどながら、濃い緑の葉をしっかりとつけ、真ん中にピンクの花がほほえむように咲いていた。
わが家の花は濃い青色である。
土によって花の色が異なるらしいが、ホント、そのとおり。親に似ぬ花色である。
娘?らしいかわいい色。
隣人の一歳になるお嬢ちゃんにちなんで、勝手に、¨ちいちゃん¨と名付けた。
若い隣人は、いずれはアジサイで垣根を作るつもりだと言う。
その一番初めの木である。
うれしいな~。
似ている!?
雨に降り込められる日々。
退屈紛らしに薄日の射しはじめた林に出てみた。
ようやくわが家のアジサイが青い花を咲かせたが、今年は花の数が少ない。
花が終わると、チョキンと枝を切り落としておくのだけれど、どうやら昨年は、切る時期、切る箇所をまちがえたようだ。
蕾がつくはずのところを切り取ってしまったのだ、きっと。
切り取った枝を適当な長さにして、そこかしこにプスプスと挿している。
挿した枝から緑の葉が出る場合もある。
今回は3本、挿し木成功。
小さな葉っぱに顔を寄せれば、そばにモミジも10センチほど、細い茎を伸ばしている。山椒の木もチョロリと背伸び。
あたりを見回して、こぶし大の石を拾って、小さな木を囲んだ。
ん?似ているな、この光景。
手術後の母が杖をつきつつ、ゆっくりと林の中を歩いていた。母の歩いたあとに小石が並べられているところがあった。
椿、山椒が小さな茎を伸ばしているのを見つけて、目印に小石で囲んでいた。
まだわたしの足どりは、当時の母のごとくトボトボとまではなっていないけれど、思いのありようが似てきたようだ。
朝の電車
午前7時。
田んぼの中の小さな駅。
向かい側下り線ホーム。3つつながった椅子の真ん中を空けて女子高校生が座っている。
白いブラウス、グレーのチェックのプリーツスカート、同じ学校の生徒だろう。
ひとことも話さず、ピンクのスマホ、白いスマホを左手に、同じポーズで右手の指先をス、ス、スー、スラリ、スラリ。
小さな車が上り線側の駅入り口へすべりこんで来た。
白い帽子、白いシャツ、紺の半パンツの小さな男の子と、紺のスカートの長身の女の子がホームへやって来た。
姉、弟のようだ。どちらも無言。眠いのかな~?
当駅は、始発駅から3つ目の駅である。
1つ目も、2つ目も、3つ目も、終日、駅員さんのいない無人駅である。
電車が来た。
まだまだ空席がある。
マスクをして目を閉じている人。マンガを読む人。鏡をのぞいている人。そして、多くの人が携帯に見入っている。
コソリとも話し声がしない。車輪とレールの軋む音と車内アナウンスだけが響く。
斜め前と右隣の男性は知り合いでもなさそうだが、突き合わせた膝に乗せている黒いカバンがそっくり同じ。
やや持ち馴らした風合いのカバンと、新品状態のカバンの底がくっつきそうになっている。同年代の勤め人に人気のカバンなのだろうか?
久しぶりに乗ることになった朝の電車。キョロキョロと目玉を動かしているのはわたしだけだろう。
どこかから聞こえる咳払い、クシャミも控えめで、ただ無言の人びとを乗せて電車は走る。
やがて、近くに大きな住宅地が広がる、その名も新〇〇と付けられた駅に着くと、おおぜいの人が乗り込み、たちまち座席は満席になった。
立っている人もいっぱいになったけれど、まだやはり、無言のままの人びとを乗せて、朝の電車は走る。
お尻?
昨日から細か~い作業が続いている。
採ってきた山椒の実のお尻にくっついている小さな枝を取る。洗う。ゆがく。水に浸す。
一部は醤油に漬け、一部は佃煮にして、残りは小分けして冷凍保存。
青梅もまた、お尻のそうじ。
山椒の実、青梅の実にお尻というものがあるかどうかわからぬが、らしきヵ所から、ヘタやほんの小さなゴミ状のものを爪楊枝でほじくり出す。
きれいになった青梅は、ゆでてさらしてからジャムに仕上げる。
新しょうがもなんとかしなければ…。
半分は刻んで、半分はすりおろして、これもジャムにする。
じとじと、ショボショボ、終日の雨はうっとおしいけれど、この季節に実る梅、しょうが、山椒、いずれも、味も香りもしたたかである。
調理の手間も時間もかかってまことに面倒くさいが、ヒリヒリ、ピリッ、スッパーイ刺激がさわやかで、梅雨どきの憂さを晴らしてくれる。
父のこと
朝、ラジオで、6月第3日曜日は父の日。作文を募集中ですと呼びかけていた。
応募するためではないが、30数年前に亡くなった父のことを思い出してみた。
わたしは、父、53歳のときの子供である。
ものごころついたときには、父はすでに老人であった。鼻下にチョビ髭、額はせりあがり、少し縮れた髪は白かった。
小学生の頃、級友のお父さんがみんな若々しいのがうらやましかった。
博識が自慢で、尋ねればほとんどのことに答えてくれた。
ことばも、歴史も、算数も。父が何でも解いて説明してくれるので、ついつい辞書や教科書を読み返すことがおろそかにもなった。
わたしが中学生、高校生になってまでも、父は娘から何かと尋ねられることに満足げであった。
わたしは怠け者で、努力家でなかったから、特に苦手だった数学はじっくりと考えもせずに、父に問題を投げていた。
さすがに高校生の数学となると、答を直ちにというわけにはいかないときがあって、なかなか返事がもらえなかった。
わたしは早々と諦めて床に就く。
すると、深夜、あるいは未明に、離れた部屋から、オーイ!と呼ぶのである。眠っている家族のことなどお構いなしの大声である。
寝ぼけた頭で、またか!頼まねばよかったとうらみながら父の部屋に行けば、布団の中で天井を見上げながら、昼間に尋ねた問題を解き始める。
なにもこんな真夜中に…と迷惑にも思いながら、その内に目も覚めて、父が説明する答をノートに書き込んでいく。
70歳近い父と高校生の娘がゲームに取り組んでいるようでもあった。
わたしはいま、その頃の父の年齢にさしかかっている。
この前、小学4年生が、兆、億という位の数字を書き込んでいるのに参加してみたが、なんともしどろもどろであった。