エッ?なんのことですか?
上空を見上げながらソロソロと近づいて来られる。
青空の下に繁る桜、椿の葉が眩しくて、目は物体をつかまえにくいようだ。
実は、桜の枝が折れて、ほぼ直角にぶら下がっている。3メートルもの長さの枝がつららのごとく下がっている。
先端をつかまえれば引きずりおろしもできそうだが、先端は頭上はるか上にある。
箒をさしのべてみた。飛び上がればかろうじて細い枝の先っぽに触れるが、かすかに揺れるばかり。
人さまの訪れは少ないが、郵便配達さん、新聞の人も毎日毎朝来られる。ことちゃんがまた、歩いてお手紙を届けに来てくれるかもしれない。
そのとき落下すれば、枯れ枝と言えどもケガをさせてしまうだろう。頭に刺さったらどうしよう?あれこれと心配、不安が生まれ、溜まる。
次の強風で、それも夜の間に、ポキリと折れて落ちてくれぬものか!?と風頼み、神頼みのまま数日たった。
朝、もの音に出てみたら、ことちゃんのおじいちゃんとおとうさんが大きな脚立を立て、枝にロープを掛けての作業中であった。
ビシッと鈍い音がしてみごとに枝が落ちてきた。
ありがとうございました。
わが家の小さな脚立に貼り付けていた、頭上にご用心!の紙をはがした。
しばらくの後、もうお一人、軽トラックの荷台に脚立を積み込んで来てくださった。
見上げて、あれっ?
いまさっき、枝を落としていただいたんですよ。
それは良かった。ハイ、ハイ。
さっさと帰っていかれた。
たまたま訪ねて来られたときに、頭上にご用心!の貼り紙を見られて、その後の様子を尋ねに来てくださったのだ。
本来ならわが家で取り除かなければならないところ。
この木の下を通る人は少ないことだし、大きな脚立も無いことだし、次の風で落ちてくれれば、などと呑気に過ごしていたことが恥ずかしい。
ご近所のご親切、ほんとうにありがとうございました。
投稿者: 前中 和子
アタタタイ
初めて本と出会ったのは何歳のときだったのだろう?
絵本だったのか?文章は書かれていたのか?覚えていない。
ただ、「アタタタイノ、サンポ二イコウ」ということばが口からこぼれる。
「ページをめくる前に、アタタタイノ、サンポ二イコウとあんたはいつも声に出していた」。いつだったか、母が言っていた。
暖かいな、散歩に行こう、だろうか?
そう書いてあったのか、絵を見ながらことばを付けて母が語ってくれたのか…。その情景は浮かんでは来ないけれど、お気に入りの場面だったのだろう。
書店で、図書館で、絵本を手に取れば、アタタタイノ、サンポ二イコウとつぶやきたくなる。
はて?どんな本だったのだろう?たぶん、それが初めての本。
うれしいんです。
2年生のことちゃん、4年生のたかあきくんから手紙が届いた。
ことちゃんがおかあさんといっしょに歩いて届けに来てくれた。
ことちゃんはちょっとはにかみやさんである。この日もおかあさんの体にくっつくようにしながら来てくれた。
ことちゃんとたかあきくんは兄妹。
隣家のこどもさんである。
作文教室の初めからの生徒である。
週一回の教室の日以外に、ときどき手紙を書いてくれる。作文教室はたのしいと書いてくれる。
教室を始めたとき、髪だってこんなに白いけれど、教室ではおばあさんと呼ばないでね、とやんわりと念を押しておいた。
以来、センセイと呼んでくれる子もいるが、ことちゃん兄妹はマエナカさんと呼ぶ。
そりゃそうだろう。隣のばあさんだった人をセンセイとは呼びにくいよね。
でも、マエナカさんと呼んでくれるのうれしいのよ。
10歳にもならない人たちから名前を呼ばれるなんて、とても幸せな気分です。
木の芽煮
山椒の花、新芽を煮るのは母の真似である。
母は毎年、山椒の小さな芽が出始めると朝に夕にその成長の様子を確かめていた。摘みどきをしくじらないために。
伸び過ぎた葉は硬い。歯触り、舌ざわりがよくない。小さすぎる葉は軟らかすぎて糊のようにベタッとなる。
ちょうどの摘みごろをピタリと押さえたいのだ。
毎年、思案顔をしながら日々を過ごし、その日が来ると終日摘んでいた。
トゲに刺され引っ掻かれ、痛っ、アイタタと小さな声をあげながらせっせと摘んだ。
晴れていても雨傘を持って出るのは、高い枝をJの字の形になっている傘の柄で引っかけ、引き下ろして葉を摘み取るためだ。
そんな様子を見ながら、わたしは手伝おうとしなかった。
煮ているとき部屋中に満ちる香りは頭をジンと痺れさせるようだったし、ピリッとする味も、こどもにはおいしいものではなかった。
おとなになってからも一連の摘み取り作業は手伝わなかった。
ただ、母は、ほぼ煮あがり完了という頃、わたしに味見をさせた。
ちょっとまだ味付けが薄いという感想がいつものことだった。
そうだろうという表情で、母は少し醤油を足した。
母は、完成した木の芽煮をつくだ煮やジャムの空き瓶に詰めて、十数人もの方々にお届けしていた。
母が亡くなってから、山椒の新芽が出てくると、たぶん今が摘みどき!?と判断して、摘んでは煮ている。
山椒の花と新芽を煮るという、年に一度の春の作業を母といっしょにしなかった娘には、あの頃の味の再現はむずかしい。
まだまだ、ひとさまに差し上げられるようなものにはならない。
いまでこそ
今日もまた、わらびを摘んだ。ひとつかみ。ありがたいなーと思いながら。
太陽と雨と風が育ててくれたものを毎日のように摘み取り、30分後には食膳にある。
山椒にしても、蕗にしても、肥料もやらず、水が足らぬか?と問うてもやらず、自然のままに生え出て来たものを摘み取っては食べている。
こんな暮らしを近年になって、ありがたいと思うようになった。
血気盛んというか、いろいろな欲もあった頃は、季節のものだから、せっかく生えているのだから、年に一度ぐらいは味わってみるか…という程のこと。
まして、こどもの頃は土筆もたんぽぽもイタドリも、さんざん摘んで、摘むことに飽きたらポンと土手に投げ捨ててしまっていた。摘み散らかし、蹴散らかしの有り様であった。
こどもは無邪気、無垢ですかー?
わたしなど、田んぼからオタマジャクシをすくっては地面にぶつけて遊んでました。
男の子は蛇を木の枝に引っ掛けて、こわがる子たちを追いかけまわし、あげくには枝ごとぶん投げていた。
こどもは残酷ですよ。
いまになって、白髪の媼となって、ヤモリもゲジゲジも見つければ戸外へ出してやり、わらびも蕗も摘みながら、うれしいな、ありがたいなーと口に出る。
ムカデなどはいまでもやっぱり、みつけしだいやっつけねば!と思っているけれど。
若葉
山のコブシ、桜も終わり、若葉、新緑がまぶしい日。
許しを得て、今は無人の家の山椒を摘ませてもらった。
近くも遠くにも人の姿はない。
ただ、ホーホケキョ、チーッチッチ、コロコロと鳥や蛙の泣き声が聞こえるばかり。
高校卒業まで暮らした地である。
かつて、昭和30年代―、
同じ時期に山椒の新芽を摘む人の姿が遠く近くに見えた。田畑にもいつも誰かしらの働く姿があった。
土手の土筆、タンポポをひとにぎり摘むこどもたちがいた。畦や川辺を走るこどもたちの歓声がこだましていた。
いま、この里の小学生は2人だと聞いた。
ここだよ
車をスタートさせてゆっくり進み始めたとき、何か、誰かがおいでおいでをしているような気配を感じた。
多分あれだ、そうに違いない。ちょっぴり心がはずむ。
用事を済ませて2時間後、自宅に戻り定位置に車を止めて、気になった場所へと行ってみた。
やはりそうだった。
わらびがたくさん伸び出ていた。か細い茎にほんの小さな握りこぶしのような塊がついている。
まさか、身の丈10センチのわらびがおいでおいでをするはずがないと一笑されそうだが、小さなこぶしがニギニギをして、おいでおいでをしているように感じた。そう感じた。
鶯の鳴き音が日々、うまくなることを思い、朝にはポツリと山肌に見え始めた白いコブシの花が午後にはたちまち点々と広がっていく光景に目や耳が敏感になっているので、小さなわらび群がおいでおいでをしているように感じられたのかも知れないな~。
小さなわらびを小さな籠にいっぱい摘んだ。
こどもたちの作品展
今年になってから展示会用の作品を書いてきた。書くのはわが家に通って来ている小学生たちである。
日頃はマス目や罫線のあるノートに書いているが、いったんノートは閉じて、さまざまな紙と筆記用具を準備、好きな紙と筆記用具を選んで書かせた。
原稿用紙、ハガキ、大小のサイズにカットした厚手の紙、100円ショップで求めたかわいい絵柄のメモ用紙など。書く道具は鉛筆、カラーペン、クレパス、筆ペンなど。
3年生の男の子たちは原稿用紙、短冊形の紙などに次々と書いていく。
川柳のような俳句のような五、七、五の句も作った。
20歳になった僕へ、というメッセージを書いたりもした。
次から次へと書いていく。何を書こう、どうしようなどの躊躇もなく書いていくのがなんともうらやましい。
1年生、2年生の女の子たちは、たくさんのカラーペンや色のついた紙を前にして、作文ならぬ絵を描くのに熱中しだした。
漫画に登場するお姫さまのような絵をひたすら描き続ける。
作文教室のこどもたちなのだから、絵にことばや文章を付けようよ、と促す。
作品展への案内状も各人で作った。
春休み中の1週間の展示会。
ご家族に見ていただいた。おじいちゃん、おばあちゃんも来てくださった。
「 ここではリラックスした作文を書いています 」と言ってくださるおかあさんがおられた。
やさしいおかあさんへ、と伝言を書かれたおかあさんは、涙が出るとおっしゃった。
こどもたちの作品展の準備は楽しかった。次は自分自身の作品展である。気分がはずまない。
ためらうことなく鉛筆を走らせ、カラーペンで塗っていたこどもたちに恥ずかしい。
椎茸
4人の方からあいついで椎茸をいただいた。たくさんいただいた。どなたも自家栽培の椎茸である。
一晩中しとしとと降っていた春雨と翌日の陽気にむくむくと育ったのか、手のひらサイズのもの、肉厚のもの、どれも採りたて、おいしそう。
さて、どうしよう?
椎茸は煮ても焼いても、メインにそれだけ食べても、刻んで餡のようにしても他の食材の味を引き立ててくれる優れものである。
が、椎茸、椎茸、あまりの量に、椎茸を食べ尽くすまでの献立を思い付かない。
干し椎茸もいいけれど、林の中のこの住まいで上手に乾燥させるのは難しいことをかつて経験した。
少し残してあとは佃煮にしておこう。
椎茸を刻み、昆布を刻み、昨年摘んで冷凍してある山椒の実も入れて、クツクツ煮て仕上げたら長く椎茸を味わえる。
刻んだ椎茸は大鍋にいっぱいになった。
煮始めたら泡が出てくる。しつっこく泡立つアクをすくいとり、すくいとり、砂糖、味醂、酒、醤油などで調味する。椎茸と調味料の香りが部屋に満ちる。
4軒の家の軒下で、畑で、林の中で育てられた椎茸が、ひとつの鍋の中でトロリと煮詰まった。
白い花
氷雨ならず春の雨が一晩やわらかに降っていた。そのせいか、前日には見なかった白い花が向かいの山に点々と見える。
コブシと言いたいがタムシバという名前なんだそうです。
なんとも語感が気に入らない。ずうっと、あれはコブシだと親や村の老人にも聞かされていた。
青空の下、山に咲く白い花はコブシでなければならぬ…。あの名作歌謡、北国の春で春待つ人々の心に鮮やかな印象を刻んでいるのがコブシである。
この山里でも毎年3月終わりの頃、まずポツリポツリと山肌に白い点が現れ、翌日にはバラバラと白い布を撒いたように散らばっていく。
咲いた、ようやく春が来た。今年は例年よりいっそう山が白い。いや、今年は少ないようだ。必ず里の人々の話題になる。
いつの頃だったか、この町の広報誌で、あれはコブシにあらずタムシバです、との解説を読んだ。
コブシと思い続けてきたもので、タムシバですと解説されても、ああ、聞きたくなかった…と思うばかり。
図鑑などによれば、タムシバは、” 噛む柴 ”、葉っぱを噛むと甘いのだそうだ。タムシバよりもカムシバのほうがまだマシか!?
ニオイコブシという別名もあるようだ。決めた!これにしよう。
これからいちいち、コブシと思っていたけれど実はタムシバという名前で、などと注釈言い訳をせず、コブシが咲いたと言うことにする。
コブシが咲いて、山里に春が来た。
丘の上の温泉の露天風呂の縁では、温泉の熱に温められてか、里よりも早く桜が咲いていた。
椿
あたり一面冬枯れの中で晩秋から赤い花を咲かせ続けてきた山茶花が、ついに全ての花を落とした。
代わって椿の花である。
ピンクの花びらが円く重なって毬のような花を付けるのと、ぼってりと大きな赤い花を咲かせるのと、あと1本、赤い花と白い花を付ける木がある。
わが家に珍種の椿がある、と早合点をしたものだった。
園芸店で求めたとき、2本の木だと気がつかなかっただけのこと。
よく確かめもせず、くっついた状態で植え込んでしまった。
30年たって丈も高く伸び、こんもりと緑の枝葉を広げた中から赤い花、白い花が覗いている。
1本の木にこういう風に紅白の花が咲くのですか?
今年も問われた。
春告げ鳥
3月11日。
青空、屋根の雪が溶けて滴る音が続く。
林の中暮らしのことで、太陽は照ってもあちらこちらに雪が残り、空気も冷たいが、初めて聴いた。鶯の音を。
続けて三声、ホケキョと鳴いた。
待っていた。まさに、まさに、春告げ鳥の訪れを。
雪深い里に暮らされる人には、それぐらいの雪で…と笑われるかも、眉ひそめられるかも知れないけれど、弥生三月になっても雪、霰が降る日もあれば、やっぱり年齢とともに気力、体力も衰え、雪に身を縮め、曇天に心をくもらせる日々が多かった。
青空の下、どこにとは姿は見えぬが、ホケキョ、ホケキョ…と三声。
ああ、やっと春が来た。
啓蟄
穴の中から虫たちが這い出てくる頃。
寒さもゆるんで、お日さまを拝もうかと顔をのぞかせてみれば、何と今朝の雪。
びっくりしただろうな~。
また穴の中に引っ込んだか?風邪ひかなかったか?
翌日も、翌翌日も凍てつく日。
風に舞う雪、吹き付ける霰。真冬の天気である。
せっかく可愛いピンクの蕾をつけたアセビの花房に雪の冠。
お~い、まあだだかい?春。もういいよ~、春。春よ来い。
成長
1年あまり前からこどもたちと作文ごっこをしている。
いちおう教室と言っているが、教えるというより、ごっこである。格別の教材もない。
文章よりも絵を描きたい日もあるようで、それはそれで楽しいひとときを過ごせているようなので自由にさせている。
教室を始めた時点では、幼稚園児、1年生、2年生という顔ぶれであった。
幼稚園児の字は、し、も、うなどの字がひっくり返っていた。濁点は左肩に付いていた。
ね、む、なんて字はむずかしかったねー。
いつのまにか、わたしは、と、わとはの区別がちゃんとできるようになり、ひっくり返る字も無くなっていった。
学校での毎日の勉強の積み重ねこそが、幼児に字を、ことばを習得させてきた。
1週間たてばこどもたちは成長をしている。
わたしは、毎週、毎週、感心し、ほめている。
もともと書くことが嫌いではなかったこどもたちなのだろう。
わが家に駆け込んでくるなり、迷うことなくすぐにノートを開いて書き始める。
ときには、「 あー、何を書こう…」と悩んでいる。なんだか字が乱暴な日がある。
この1週間の間に、心乱れるようなことがあったのだろうか、と気になったりもする。
フェスティバル
各地に大雪。
7時半、この冬、初めての雪かきをした。
わが家から広い道路へとつながる山道の雪をかく。頭に身体に雪を積もらせながら、厚さ20㎝の雪をスコップで押しのける。
道はわずか数メートルなのに、疲れた。
雪をよいことに一日中、一歩も外へ出ぬ日にしたいが、約束があった。わが家での作文教室に通ってくるこどもたちの発表会がある。「 今田小フェスティバル 」という。
台本も見せてくれた。ぜひとも晴れ舞台を見に行かねばならぬ。そのためにも雪をかいた。
8時半、しんしんと降る雪の中、ゴム長靴を履き傘をさして出た。幸いわたしの家から小学校まではお隣さんの近さである。
とろとろ運転の車が小学校をめざして進んでいる。おとうさん、おかあさんたちであろう。
小学校は創立140年。
わたしも父も母も、この町(村)で生まれた人のほとんどが通った小学校である。
わたしが通ったのは、もう半世紀以上も前のこと。およそ4㎞の通学路であった。生まれ育った集落は、この先行き止まりという谷にあった。
戸数30の集落のこどもたちは、毎朝、公民館の前に集まってから並んで登校していた。
雪の朝は父、母たちが広い国道まで雪をかきのけて一筋の道を作ってくれた。
いま、わたしの育った集落のこどもたちはスクールバスで通学している。小学生は2人だと聞いている。小学校全体では156人、各学年1クラスと資料にある。
あの頃、教室には40人以上ものこどもたちがざわざわひしめいていて、学年によっては3クラスあった。学芸会が別棟の講堂で行われた。
雪の日の今田小フェスティバル、会場は教室と同じ棟の中の多目的ホール。
1年生のことちゃん、いろはちゃん。しっかりとせりふが言えた。頭に着けたお月さまの冠がキラキラと照明に輝いていた。赤い着物もかわいかった。
3年生のたかあきくん、じょうなくん。大きな声でせりふを言い、すぐに笛を持って演奏し…、劇あり、歌あり、楽器あり、一人何役もの大活躍だった。
わが家に小さなこどもはいないが、このところ、保育園で、小学校で、グランドを駆ける姿、舞台での熱演を楽しませてもらっている。
立春なのに
二、三日暖かい日が続いていたが、立春をはさんでこのところ、凍てつき、終日雪が舞っている。
とはいっても、ときどきは淡い陽射しもあるので雪も溶けるが、木の陰、北の屋根にはいつまでも雪が残って固まっている。踏めばガサゴソ、バリバリと鳴る。
暮らす家は、朝の室内温度2度。灯油のストーブを点けても部屋はなかなか暖まらない。
もう半世紀、それ以上も前のこと。
生まれ育った家は、茅葺き屋根の下に土間が続き、一番奥の土間にはおくどさん、流し台、ゴエモンブロの焚き口があり、広い板の間に囲炉裏があった。
囲炉裏の周りは木屑や枯れ葉、灰だらけだった。囲炉裏の上に天井は無くて、梁は煤で真っ黒、煤はバラバラ落ちてきた。
炉の縁は暖かかった。
囲炉裏とおくどさんと風呂の焚き口に薪がくべられたときは、火照る熱さだった。
けれど、風呂もおくどさんも、囲炉裏も、おとながいなければ燃やされず、昼間の家の中は寒々としていた。
おとなたちは冬の日は柴や薪を作りに山に行った。
分け山というのがあって、村の共有林をくじ引きか何かで分けて、それぞれの家の燃料を切り倒したり束ねたりしていた。同じ時期に作業をするので、おとなたちの社交の場でもあったようだ。
親が山にいることがわかっているので、こどもたちも学校から帰ったら山へ行く。
鎌や斧を上げ下げする親のそばに近づけば叱られる。少し離れて、木の枝を折り曲げ、よじ登り、ユッサユッサと揺らして遊ぶ。少しは体が暖かくなる。
夕飯の支度、風呂も沸かさねばならぬ。山の仕事を早めにきりあげ、枝を引きずり柴を背に負い、家路につく。こどもの背にも小さな柴の束がくくりつけてある。
帰ればおくどさんの前で暖まれる。
あの頃ー、雪も降り、積もる日もたびたびあった。ON、OFFで暖かくなる暖房器具は無かった。
おとながいなければ、家の中に”火”もなかった。
こどもたちは缶けり、追いかけっこをして暖まっていた。
夕飯の支度、風呂わかしが始まって、畑の向こうの家の煙突から煙が見え出したら、遊んでいたこどもたちはひとりひとり帰っていく。
育った家は座敷と土間を仕切る戸も障子も無い家だった。当時の農村の家の間取りは同じようなものだっただろう。
家族で夕飯を囲み、風呂も済ませ、布団の中の小さな炬燵に火だねを入れれば、あとは家中の火を落として床に就く。
翌朝、目覚めれば、たてつけの歪んだ障子の隙き間から吹き込んだ雪が畳にキラキラと光っていた。
前栽と寝間との隔ては紙障子だけだった。
現在のわが家もまた、隙き間が多くて、戸外と室温がたいして変わらぬ寒さである。ボタンを押せば瞬時に点火し、一気に暖かくなるという快適さには程遠い暮らしかたをしているが、ふるえながら細かく柴を折り、上手に薪を組んで燃やしつける工夫もいらない。
これで充分、充分。
雪だるま
この冬初めて15センチほど雪が積もった。
凍てつく里では風に舞い舞い、チラチラと、雪や霰が飛ぶ日はあるけれど、近年はめったに積らない。
久しぶりの積雪に大人はとまどい、車のこと足もとのことを心配し、こどもたちは雪だるまを作った。
メールで届いた写真には、作ったこどもの背丈よりも大きな雪だるまが写っている。
バケツの帽子を着せられ、ちょっと斜めのポーズで雪晴れの空を見上げている。
大きな雪だるまを作った母、子ともに寒そうで、そして誇らしげに見える。
たぶん、こどもたちには生まれて初めて見た雪景色だったのだろう。
とんど
「 権現さんの前でとんどをします 」と誘っていただいた。田畑にうっすらと雪の降った日。
寒気厳しい中、紙袋に今年の注連飾りと昨年の分も入れて行った。
とんどへのお誘いは初めてのことだった。
お正月飾りの始末に困っていた。まさか、用が済んだからとゴミのような扱いはできない。燃やすといっても、林の中での焚き火は恐い。で、昨年のお飾りも置いたままになっていた。
生家がここから4㎞ほどの集落にある。そこでは昔から近隣が集まって、大きなとんどをしていた。そちらへ持って行った年もある。
いろいろな正月飾りや書き初めや古い年賀状などを焚き上げる。
周りの竹林から手頃な竹を切って、先端に切り込みを入れ、餅を挟んで焼いた。
餅は上手には焼けなくて、ほぼ黒焦げになったが、とんどの火で焼いた餅を食べれば、神様のおかげがある、と焦げて煙りの匂いもしみついた餅を家族みんなで分けて、ひと口ずつ食べた。
1999年から暮らしているこの近隣では昔から、各戸それぞれに正月飾りを庭や畑で焚く習慣だったようだ。
誘っていただいた権現さんの前で持ち寄った正月飾りを焚き上げた。小学生も赤ん坊も参加していた。
ここで暮らし始めたとき、近隣10軒のうちであんたが一番若い、と言われた。53歳のときであった。どの家にもこどもたちはいなかった。
現在では新しい家も建ち、赤ん坊から保育園児も小学生も、その親、そして90代も…、さまざまな年代の人が暮らす地域となった。
こどもたちがいる暮らしが、みんなでとんどをしませんか―のお誘いのきっかけになったのかもしれない。
年賀状
今年の年賀状は4種類のご挨拶状を作った。
おめでとうございますと新年のご挨拶を書いたもの。
わが家の早春をほんのりと彩ってくれる馬酔花や梅のことを書いたもの。
“駄馬”のつぶやきを書いたもの。
それと、ゆっくりポックリ歩みましょう、と同世代の方々にゆる~いエールを届けようかな、というものと。
ヘタな字ながら200枚余、一枚一枚、お一人お一人の顔を思い浮かべながら筆で書いた。
年賀状だもの、と正月になってから書いた年もある。
けれどやっぱり、元日にポストに入っている年賀状を見ると、正月気分になるものだなあと思い直し、以後、年賀状は〇〇日までに、と呼び掛ける日を目標に書き始める。
時間は十分にあったのに、今年こそ12月25日までに出そうと思ったのに、今回も束ねて郵便局に持って行ったのは一日遅れて26日。
1月1日に届いただろうか?

キセンボー
サカトンブリなんていうことばを何十年ぶりかに聞いて懐かしかった。てっきり、この地方独特の方言だと思っていたが、ちゃんと広辞苑に出ていた。
では、では、「 サンコにしとります。のサンコはどうだ?」、「 キセンボーはどうだ?」思いつくままの声があがった。
「 サンコにしなさんな 」と叱られた。キセンボーを振り回して少年たちはチャンバラをしていた。
そういえば、ウチの家はサンコなものだった、となつかしい情景が思い出されて頬がゆるむ。サンコは散らかるの意味である。
山道を友人と歩いていたとき、友人が「 どこかに手頃なキセンボーが落ちてないかしらん 」とつぶやいた。
えっ?キセンボー?そうそうキセンボー。手頃なキセンボー、同年輩の者にはどれぐらいのものか何となく解る。杖にする枝を探しているのだ。
何でキセンボーなのか?キは機、センは先、ボーは棒、つまり機先を制する棒=先手を打つ棒なのだと説明する人がいた。それほど大層な意味だろうか。
チャンバラは先制攻撃が大事、上等のキセンボーが要るのか?
山道を歩けば、目の前に蛇がトグロを巻いていることもある。頭上にはトゲのある枝が覆い被さってくることもある。そんなときに先手を打って振り舞わすからキセンボーなのか?
サンコは広辞苑では見つからなかった。
三五は当てはまらぬか?三々五々は?まばら、という意味。サンコはまばらではないなあ。
でもしかし、サカトンブリが歌舞伎のトンボを切るにも通じるように、キセンボーは機先を制する。サンコは三々五々。
ちゃんとした由緒正しいことばなのかも知れないなあ。